覚者慈音824  光明論上巻 巻の三 102番 此の書の眼目一大事を説く 教主講義 頭腹一体の理

覚者慈音824
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.08
                      第102番


 先づ本論に入るに先だち汝等に問ふことあり。汝等の四肢五体は誰のものぞ聞くなり。汝等は直ちに我ものと答ふならん。もとより然るなり。されど手には手と云ふ名あり。足にも頭にも胸腹顔等々すべて名を有せど、汝の姓名を有する場所は何処にもあらざるならん。汝の姓名なければ四肢五体は他人の関係ありと見なすも差支なかるべしとの理屈も云ひ得らる。汝等は何処を憎み、何処を愛するや。第一愛する処は口にして眼耳鼻は是に次ぎ、五体は三位に置るると云ふならん。肉体に斯る区別あるならば真の他人と一体となれと云ふは理に合ふも、真の理とは云ひ難しと考ふるならんと我は思ふなり。故に汝等先づ此問をなせり。汝等ここに一段考へを深くせしむべし。汝等あやまりて指を怪我する時、是を紐帯(ちゅうたい)せば指の自由は妨げられて意の如くならざる時、汝等は何と云ふや。わづかこの位の事が斯る不自由なるとは平素思はざるに、是位の事に悩まされ苦しむとは指の大切なることを始めて知れり。ああ此指が早く治癒せば何をか思はんなどと大袈裟なる愚痴をこぼし、治癒すれば忽ち忘るならずや。盲者は眼を大切なる処と嘆き、躄(いざり)は大切なる足をと、手萎(てなえ)は大切なる手をと、失へる処は身体に最も大切なりと考ふるに至る。五体完全なるものは彼等を不虞者として或反面侮蔑の眼を向け同情は口先のみの人多し。世人は不虞者を廃物と見ての侮蔑なるか、或は異様に変りたる姿が常人と異れる滑稽を嘲る侮蔑か。是等は別として肉体に関して汝等は各所より恩恵を受けつつあるを忘れ居るは事実ならん。その恩恵に対して汝等は何等の報酬もなし居らざるべし。日々食して養分を与へ居るは是報酬ならずやと云ふならば、汝等食する時、手足に迄報酬を与ふる心持ちにて食をとりをる者とは我は信ぜず。汝等己の五体にすら斯くの如き差別をなしつつあるに一切衆生悉く一体の境地となる修養は容易ならざることと思ふなり。されど是より我の説く本論をよくよく翫味し見よ。然してなると思はばなすべし。ならずと思はば退くべし。一切衆生は悉く汝の肉体なり。汝の肉体ならざるは一としてあらざるなり。故に是を愛せざるべからず。宇宙一体の具備ある以上地球と一体なるは云ふ迄もなし。然れども其理は然あらんとさとりても是を我身にとりて如何せばよきかと云へる事に汝等は迷ふならん。汝等急がず少時我説に耳を籍すべし。

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