覚者慈音820  光明論上巻 巻の三  98番  教主寛大講義 頭腹一体の理

覚者慈音820
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.06
                      第98番


 第三鏡の修行をあやまたば取り返へしのつかざる結果となる怖れ少なからざれば、汝等は心に心して身を省み行為を正しくして軽率に融和を計ること勿れ。因果鏡、一名融和鏡或は判別鏡とも云ひつべき智慧の光明にいささかたりとも汚点を生ぜしむる如き、或は傷くることあらば正しき判断はなし難し。枯尾花を幽霊と見誤るはまだしもよけれど、善人を悪人と見あやまれば、先方の迷惑するのみならず、汝にとりても信を失ふ結果とならん。賢者を愚者となさば却って己が陵辱を受るが如き誤認は魂魄の光未だ全からざるによる。わけても魄の誤認はきはめて多ければ、第三の修行こそ重大なり。汝等幼児の腹を見よ。丸く鞠の如く胃部のへこみあることを見るならん。然して幼児は何物にも頓着せず、物を重視せざるに何時の間に見をきたるか、よく物を見定め居りて人を驚かす智慧を現はす。もとより幼児の魂魄は芽生なるが故に、徹底せざれど成人者の考へ及ばざる働かせかたをなすは、彼等幼児は頭腹一体なるによりてなり。故に転倒なすとも比較的負傷は小にして治癒も速なるは是がためなり。さりながら是は平面自然より受けし保護防止なるによりて長ずるに従って消滅なし行くなり。腹力強き人はガイな人と称へ居る地方の方言を耳にす。是意魄の存在すると云ふ教へより来りしなり。汝等修養とは広く道を聞きて憶ゆればよしと考ふるは誤なり。もとより道は広く聞き学ばざるべからず。然れども聞きて実行に移して用いざれば効果なし。故に聞きて聞き流しになすは慎むべし。其のみならず修行する者のならひとして己労せずして道を得んと計り、一より十迄教へをせまるは誤なり。斯る事はなかべからず。其は修行の妨げとなるのみにして決して利益とはならざるなり。汝等親より受けし金銭は使用を簡単になせど、己働きて得たるものは重く考へざるか。是等の事より考へ見よ。己が栽培して結ばせたる果実と商店より買ひ入れしと何れを重く取り扱ふや。云ふ迄もなかるべし。されば広く学びて我智慧のあらん限りを絞りて考案工夫して尚及ばざれば其時初めて教へを受くるべし。然らずば道は己のものとはならざるなり。智慧を磨く考案工夫するを云ふなり。智慧の根源は霊なるが故に空源力神通力を知るを以ての故に汲めども汲めども尽きざる泉の如く、汲めば汲むに従ひて水は清くなり行くなり。磨けば明鏡なるに依て光は増し光明の威徳は益々強く益々高くならん。魂の鏡を磨かば疲労と倦怠を感ずべし。斯く語らば汝等は云ふべし。二兎追ふものは一兎を得ずの例に洩れず。魂魄二つの鏡を同時に磨かば何れも光を得るは難からんと。その教へは即ち平面自然の原理なり。汝等は伝統的習慣により平面自然ににて考へ居れるより誤れるなり。立体自然は斯る不自由なるものにあらずして自由自在なれば決して疲労倦怠をおぼゆるものにあらず。我今自由自在の説明をなすに先だち汝等が思ひ居れる自由主義の錯誤より先に説明を加ふべし。

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