覚者慈音816  光明論上巻 巻の三  94番  此の書の眼目、一大事を説く  教主寛大講義

覚者慈音816
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
此書の眼目、此教への一大事を説く
  
                  教主寛大 講述
                  2019.2.03
                      第94番


 セイキョウ、テッシンが教へたる四線の法則より観察せば第一、第二の鏡は即ち破壊と分解に属し、第三の鏡は融和に比すべし。融和に等しき鏡なればすべてにこれ和するなり。脳裡に映じ来りし事柄が腹の第三鏡に映じ来る迄の修行が成立せば、すべては半は成就したりと考ふるも差支なきなり。汝等は腹をたてると云ふも脳裡に映じたる事柄が腹に映じたる時、腹の養ひ足らざるにより、施す術を知らざるに依て腹が動揺を来し、魂は是を抑圧するを得ずして混乱を来たす結果が、腹立しく苛ただしくなるなり。故に腹を養ふ修行せざればなす術を考ふる余裕なくして、徒に腹をたてて癇癪を起して爆発して短慮者となり、後に我、悔悟せざるべからざる醜態を演ず。されば汝等はとかく脳裡にのみすべてを任かせず頭腹共に平均せしめて、事に処する修養こそ大事なり。すべてを腹に委すと云ふことは結果に於て大事をなし遂げ得る資格を有する人物となるべき方法にして、此方法を措いて他に道を択ぶとも決して結局は是に帰すべし。腹に委せをかば大切なる胆力は増大し如何なる難儀に遭遇するも動ずることなく、物事はすらすらと解決なし得らるべし。第三の鏡は腹にありて因果せしむる力を有すればなり。されどここに注意を要することは善因には善果ありとの理を究めて行はずば、悪果をみのらせては終生取り返へしのつかぬ道にふみ入る恐れあるなり。是より善道と悪道のすべてを明白に説明なさん。
 平面自然と立体自然をくたくだしく前述しをきたるも此誤り無からしめんが為なりしなり。汝等は他人に贈物をなすに何故粗品と記すか。或は味なき食をすすむるや。是虚偽なるべし。汝等の心中に先方を敬ふ意味が却って侮辱或は不遜の結果となるならん。何故品物の何なるかを明記せざるか。或は食をすすむるならば先方の嗜好に適不適の挨拶にて事足るべきにあらずや。斯る悪思想は法には合はざるなり。斯る事よりも駆引とか虚偽は生れて却て信用を失ふなり。是日本の悪習なるを誡む。今より改めよ。斯る習慣は昔はあらざりしが、支那文学印度仏教の尊崇論或は陰徳論が枝葉にわたり行きたる結果の現はれなり。汝等正直なる道を歩むべし。曲れる行ひは修行の結果は、曲れる実を結ぶなり。他人の歓心を買はんとて偽はりの世辞言葉をなす勿れ。我心の修行に支障を来さん。
 褒むべきは褒むべし。憐むべきは憐めば可なり。愚者を利発者と世辞を云ふなかれ。彼の愚を憐みて黙せば可なり。愛語と世辞とを混同すべからず。親として放蕩息子、娘、乱暴息子娘の行為を他人に大袈裟に吹聴して同情を求めんとなす不心得者は多し。我息子は我等の誡めを用いず、却て我等に反抗し果は我等を打たんとなす不孝者に手のつけようもなく、ほとほともてあまし居るなりと誰彼の区別なく語り居る聞く。汝等聞きて如何に感ずるや。親を不憫と思ふや。子を不憫と思ふや。世間一般は親に同情し子に憎しみをかくるならん。さりながらそは表面を考ふるにて内面の考へにあらず。子を悪人の結果に育てし親の責にあり。是を吹聴するは親が悪を披露して恥ぢざる悪人とならざるか。悪人の実を結ばしめたる子にこそ同情すべきにてはあらずや。老先長き一生を不孝者よ、悪人よ、無法者として爪弾きさるれば余儀なく悪道に堕ち行きて生涯を悪鬼となりて終らするは不憫にてはあらざるか。即ち平面と内面には斯る相違あることを知れ。親子の論説には他に異論の数々あれども是には平面立体の異れる形の相違を、参考迄に説きたりと知るべし。
  汝等が見聞し来りし鏡とは即ち智慧の光明にして善悪邪正を問はず、すべてに通ずるが故に善と悪との区別せず、偽らずして現はしあることを汝等は見聞したるならん。然して汝等が心に描く様々の思ひは鏡にかかれば、汝等如何に隠蔽なすとも現はれずと云ふことなし。過去はもとより現在未来に至る迄悉く現はるることを汝等は学びたり。されど汝等は是を見て唯不思議なるものは天界にあるとのみ考へて、脳裡をかすめ去らしめなば、我の教へは水泡に帰するなり。此鏡のすべては汝等の身体にもをかれあることに思ひ及ぼさしめずばさとりの目的は貫徹せざるなり。

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