未知日記霊話集千六百十二回  帰途案内記 NO 31 信仰は清浄無垢にして汚れたるものにあらず。されど周囲の関係より集り来る垢によって汚さるるが故に、ここに疑ひと云ふ汚れが附着なすによって、霊と云ふ水に依て是を洗ひ清めて清浄無垢の魂と化すれば疑ひの垢は、清除せられて影を没す。故に疑ひには絶対と云ふものはあらずして、周囲より集り来る汚れなれば日々拝みをなして、その垢を脱落せしめて魂に光明を輝すことに努力すれば、信仰は正しく強く輝くと知るべし セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 31

セイキョウ貴尊 講述
                    
 斯く語り来る時世人は迷ふならん。其は他ならず。信じると云ふ言葉ある以上其が無言詞絶対と云ふならば、是に対して又疑ひと云ふ無言詞疑ひはある筈ならんと云ふことなり。されど其は正しき信仰と云ふものを未だ知らざるが故なり。疑ひと云ふは信仰に附着する一つの穢れたる垢なり。故に絶対にあらざるなり。汝の衣ははじめは清し。されど纏ひ居らば垢づくならん。その垢を清除すれば清浄の衣となる如く、疑ひは汚れなるが故に、絶対にはあらざるなり。是を他力信仰自力信仰と考へなばそは誤解なり。信仰は清浄無垢にして汚れたるものにあらず。されど周囲の関係より集り来る垢によって汚さるるが故に、ここに疑ひと云ふ汚れが附着なすによって、霊と云ふ水に依て是を洗ひ清めて清浄無垢の魂と化すれば疑ひの垢は、清除せられて影を没す。故に疑ひには絶対と云ふものはあらずして、周囲より集り来る汚れなれば日々拝みをなして、その垢を脱落せしめて魂に光明を輝すことに努力すれば、信仰は正しく強く輝くと知るべし。
 世人は信仰をつくらんとするが故に信仰は得られざるなり。即ち信仰も疑ひも共に垢と思ふが故に、信仰と疑ひを同視するなり。正しき信仰とは汚れざる信仰と云ふなり。是によって信仰とは如何なるものなるかを認識することを得たらん。信即疑ひ、疑ひ即信の考へは、我等前にも語りをきたり。それは普通一般人の信仰にして、正しき信仰にあらずと常に語り居ることを、是によって世人の信仰と我等が語る信仰とに、相違ありとの意味も諒解したらん。されば自然と云へることに対しても亦同様なり。自然は曲げらるるものにあらず。世人の自然とは不自然を伴ふ自然を指すならん。故に世人は自然を逆用なして用いおるが故に、気光素光気素の区別すら判明することを得ざるなり。是等の道理は追々語るべけれど大自然と語り居る言葉は、即ち無言詞自然を指すと知らば可ならん。無言詞の論説は最後に教主が御教(大霊界の書)へを下さる由なれば、我等は唯無言詞に対して結論は語ることを避けて、教主の御教へを感受する資料の参考に迄供へをくこととせん。依て諒せよ。

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