未知日記霊話集千六百十一回  帰途案内記 NO 30 信仰をたかむる法は、即ち拝みするにあらざれば得がたきことも推して知ることを得るならん。されば法とは拝みなるが故に、信仰より拝みの法は、現出することも亦当然ならん  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 30

セイキョウ貴尊 講述
                    
 信仰は初めより具はりあるものにて、魂と共に潜在なし居ることに考慮をめぐらすならば、魂を見出すには信仰と共に求むるにあらざれば得難きことと知るべし。魂は信仰によって得らる。故に信仰即魂、魂即信仰の関係となるなり。よって無言詞絶対に至らば魂は自づと表面化し来ると知りて、信仰の度をたかむるにあらざれば、魂を引き出す事難きことも推して知ることを得ん。魂を見出すは信仰の程度によって現はれ来る。信仰の度低くければ魂の現はれかたも低し。信仰の度強ければその程度だけ魂も表面化し来ると知らば、修養とは信仰の度をたかむるにあらざれば、魂のはたらきはにぶし。信仰をたかむる法は、即ち拝みするにあらざれば得がたきことも推して知ることを得るならん。されば法とは拝みなるが故に、信仰より拝みの法は、現出することも亦当然ならん。かく考へ来る時、すべての事柄は自然解決なしたるならん。即ち絶対他力絶対自力と云ふは何れも法なるべし。法なるが故に絶対はあらざるなり。驚愕法も亦同様と知らば可ならん。終始なく具はりあるものにあらざれば絶対とは云ひ難し。故に無言詞絶対とは終始の区別あらざるが故に、絶対と云ふなり。所謂神を信仰するとは是又絶対にあらず。神を信ぜよと云ふは即ち法に属す。神と云へる法によって、潜在しある絶対のものを引き出す法に、用いられ居るにすぎず。故に神と我とは相対の関係の如く思はるれど、神と云ふ一種の法を用いて其によって魂を引き出す方便の術なり。行者の云へる絶対と我等が説く絶対とはかくの如き相違ありと知らば可ならん。神は絶対なり。その絶対を法に用いて其に依て、無言詞絶対を引き出し、然して無言詞絶対に同化し居る魂を共に引き出す一つの方便として用い居るにすぎず。我、最初自在論に於て神を造りては如何と語りしは是なり。神を法として用いよと語りたるにすぎず。さればこそ神は有無の如何に不拘あるものならばあり。無きものならば無くして是を人智よって見出さんとなすとも及ばざることを知るに依て、唯法として信仰の具に供せよと語りしに他ならず。魂霊化してはじめて神の存在を知り、然してその尊さを知るにあらざれば、是神の存在の有無を如何に語るともそは空虚にして成立せざることを知るに依て、斯くは語りしに他ならずと知るべし。

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