未知日記霊話集千六百十回  帰途案内記 NO 29 信仰を法によって求むるにあらず。所謂信仰ははじめより備はりあれど是を表面に現はすこと難きがゆえに、是を引き出さんが為には何かの術なかるべからず。即ち是を引き出す術は法なり  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 29

セイキョウ貴尊 講述
                    
 宗教者がよく語り居る絶対他力とか絶対自力とか云へる言葉に対しても世人は疑問を起さざるや。宗教者の語る絶対と我等が語る絶対とには是又相違あるなり。宗教者の語る絶対とは所謂有無の対照にてこれ又絶対にはあらざるなり。故に絶対他力絶対自力と云ふ言葉は、即ち前に語りし絶対驚愕法の部類に属す。故に正しき絶対にはあらざるなり。既に信じると云ひ或は信ぜずと云ふも是相対なり。信不信即ち相対にはあらざるかに思ひを致し見よ。驚愕法に於ても亦然り。驚き驚かすと云ふも是相対にはあらざるか。よし絶対ありとして考ふるとも驚くと驚かざるとの二種に区分せらるれば相対にして絶対にあらざることも、従って認識することを得ん。信と云ひ不信と云ふも是又同様の関係となるならん。ここに思ひを致さざるべからず。ものに表裏あらば即ち相対なり。絶対他力に対して絶対自力ありとせば、その絶対と云ふ言葉にすら自力と他力の表裏の意味が、絶対の中に含まれあるにてはあらざるか。同じ絶対と云ふ言葉に於てすら、その絶対に表裏あらば是正しき絶対にはあらず。然りとせば絶対と云へる言葉も亦成立ざるべし。ここに至らば無言詞絶対にあらざれば真の絶対とは云ひ難からん。いささか理窟に属する説きかたなれば汝等には理解すること難からん。されど此解し難き言葉をよくよく咀嚼翫味して工夫せば、自づと迷ひの道は影を没せん。
 されば我の世人に教ふる処の信仰とは、即ち無言詞信仰を指して絶対信仰と語り居る事に他ならず。驚愕法には無言詞驚愕法と云ふものはあらざるなり。故に絶対驚愕法と云ふは成立せざるもこの理なり。法とは即ちものありて施す術なれば、すべては相対にて絶対には属せず。法の行はるるはみな其々に対して施す術なれば、絶対より生れたるものにて云はば同じ空の中にも無より有を現はしたることを法と云ふなり。故に絶対法はあらずと知らば可ならん。されど信仰は法にあらず。信仰を法によって求めんとするは、法より生れたる信仰となるによって、たとひ如何に言葉を尽すともその信仰はすべて相対となることも推して知ることを得るならん。信仰によって法を産むと、法によって信仰を産むとには、大なる相違ある故なり。所謂零コンマ零(0.0)の如き関係あるなり。いささかむづかしくして理解することは難からん。即ち信仰を母とし、法を子とするならば、母コンマ子母、子の関係となり、是が反対とならば、子コンマ母 子、母の関係となるが故に成立せざると同様と知らば可ならん。信仰を法によって求むるにあらず。所謂信仰ははじめより備はりあれど是を表面に現はすこと難きがゆえに、是を引き出さんが為には何かの術なかるべからず。即ち是を引き出す術は法なり。

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