未知日記霊話集千六百九回  帰途案内記 NO 28 教主が仰せられし如く、一法を修すれば万法に通ずの原理を体得して、其によって自然に順応すれば大同小異道は開らかるることに着眼して、先づ大自然の本来をあやまたざるやぅ工夫するにあらざれば、却て迷ひのみ多くして得る処尠少からん  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 28

セイキョウ貴尊 講述
                    
 全宇宙の大自然はすべてを完備して至らざることなし。その一部の現れとして人類は組織されたるなり。されば大自然の理を究め尽して是を応用せばなしてならざる事あらんや。ならざるは未だ智能の及ばざる故なり。されど自然の範囲は極めて広く是がすべてを知り尽すことは、人智の如何に進むとも及ばざること多し。故に教主が仰せられし如く、一法を修すれば万法に通ずの原理を体得して、其によって自然に順応すれば大同小異道は開らかるることに着眼して、先づ大自然の本来をあやまたざるやぅ工夫するにあらざれば、却て迷ひのみ多くして得る処尠少からん。円海が七月二十三日(昭和二十四年)のこだま会に於て話したる驚愕法の事柄も、これみな大自然の一部を応用したる方法にて、この方法が拡大強化せられて、脱魂法或は魂換法など行ふ術を工夫して、達成なしたるものなり。是等の原理は陰電陽電の作用を応用したるものにて、所謂陰陽の調和を計り自他の魂魄の力を測定して、然してその相互の分度を計算し、これによって種々様々の脱魂或は魂換をなさしむることを得るなり。是等もみな驚愕法の一種と知らば可ならん。大自然の力を応用すれば斯くの如きこともなし得らるる術も工夫せらるるなり。さりながら是等は大自然の理を認識して逆用したるものなれば永久的にあらず。唯一時的の現象にすぎざることは云ふ迄もなし。何となれば大自然の力はまぐるともそは一時的の事にして、何日かはもとに復すことは是又自然の法則なるが故なり。この一時的の現象を方便法と云ふなり。偽はりの言葉も人の災悪を救ふ一つの力となるも、是自然の逆法なるに他ならず。されど人を救はんが為の方便の逆法は、恰ももつれたる糸をさばきてもとに復すると同様なれば、是は罪とはならざるなり。故に宗教者が云ふ方便の偽言は許すべしと説かれあるなり。
 驚愕法には種々様々あれど是を大別すれば、自他の関係或は他自の関係に他ならず。所謂相対なるが故に、是等は一時的の現象にて長くは続かざるなり。然らば絶対驚愕法はあらざるかとの疑ひも生ずるならん。我等に云はしむれば絶対驚愕はなしと答ふの他なし。
 或行者は絶対驚愕法は即ち神と我との関係にして、即ち神は零にして自らは有形なれば、その有形を零によって驚愕せしむるが故に、そは絶対に属すと語り居るを聞けど、我に云はしむればたとえ零なりと雖も、其を怖るる底の方法ならば其は絶対とは云ひ難し。即ち無と有の関係なるが故に、是又相対となるによって、絶対驚愕法はあらじと云ふなり。斯く語らば世人は疑ふならん。何となれば信仰には絶対信仰と相対信仰の二種ありと聞かされあるが故に、神を信ずると云ふは我と神との関係にして所謂相対なれば、絶対信仰は成立せざるべしと云ふならん。絶対信仰と相対信仰の相違は那辺にありやに迷ふにあらざれば、絶対信仰は確認すること難からん。我かく語らば世人は又云ふならん。驚愕法には絶対なくして、信仰には絶対ありとならば、我等は益々疑ひの度加ふるのみにて如何にせば、正しきさとりを得るやに迷ふならん。是は至って大切なることなれば少しくくどく語るべし。

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