未知日記霊話集千五百九十六回  帰途案内記 NO 15 行者が種々様々の術を用い居るは所謂如意階の理を知りて、其に同化なすによってなりと知らば、彼等の行ふ魔法は忽ち看破することを得るなり。魔法をほどく術のあるも、即ち如意階の理をきはめなばいと易きことなり。行者は祈りをなして空中に仏の姿を現はしたりとせんか。是に対して失せよと命ずれば、忽ちその姿は消滅す。されどその仏に対して失せよと命ずる底の力が具ずば決して消せるものにあらず。彼等は業比べとして法力を磨き居るもみな、如意階の力の程度を増大なし居るにすぎざるなり  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 15
セイキョウ貴尊 講述

                 
 世人の自問自答のすぐれざるは、種々様々の雑念の自問自答なるが故なり。例へば一つの事を問へば其に対して忽ち答を与ふ。然るに世人は五つ六つ或は十、二十の事柄を一時にたづぬるが故に、答へも一時なるが故複雑となりて判明せざるに等し。恰も写真を撮映するに二重三重同じ種板を用いたると同様の結果となりて、何ものを映写したるかを知るあたはざると同様の関係なるが故なり。世人はものを考ふる時一つの事を一すじに考ふる時一つの事を一すじに考へ居らば、忽ち理解することを得にも不拘、他に様々の雑念を考ふるが故に迷ひは深くなるなり。
 今慈音に到りて我が語り居る事に対しても、慈音はその言葉を己、先に聞きて判断を下して後口に現はし居る為、ここに二重の影を見するがため言語は曖昧となり居るなり。己、聞かずとも我語るままを伝へなば其にて可ならんに己も聞き、欣情にも記るさせんとなすが故に稍もすればあやまりたる言語となりて不明瞭の点多し。
 自然にそなはる力あるによって世人の世界にも、蜃気楼オーロラ或は水面に現はるる不知火の現象も、そのなりたちを異にすとは云へ、原理はこの如意階のはたらきあることによってなりと考ふれば、これを学理に応用せば種々様々の利益をもたらすならんと思ふなり。されば是等の現象は学理によってもきはむること又難きにあらずと知るべし。
 行者が種々様々の術を用い居るは所謂如意階の理を知りて、其に同化なすによってなりと知らば、彼等の行ふ魔法は忽ち看破することを得るなり。魔法をほどく術のあるも、即ち如意階の理をきはめなばいと易きことなり。行者は祈りをなして空中に仏の姿を現はしたりとせんか。是に対して失せよと命ずれば、忽ちその姿は消滅す。されどその仏に対して失せよと命ずる底の力が具ずば決して消せるものにあらず。彼等は業比べとして法力を磨き居るもみな、如意階の力の程度を増大なし居るにすぎざるなり。

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