未知日記霊話集千五百九十四回  帰途案内記 NO 13 肉体を有する間に神仏のありと信じて念を強くなし居たるものは死して魂の緒の切れざる間に、如意界に直行してここに於て魂の緒は全く切断せらるる結果となる。されど肉体を有する間に神仏を知らざる人は死すれば浮住界に到りて魂の緒は全く失はるる故に、ここに於て苦みを新に起す結果となるはこれ信不信の相違あるによってなり。又信仰厚き人は如意界に於てたとひ空中楼閣をつくり居るとも、ミキョウ達の救ひの手はのびて彼を更に他の定められたる位置迄運ぶが故に、苦みの悩みはまぬがるることもある事は、世人の常識より考ふるもおぼろげに察することを得るならん セイキョウ貴尊講義



未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 13
セイキョウ貴尊 講述


 魂の緒切れて後の事を語るは空の空なり。又無の無なるが故に議論を戦はすことは敢て好ましからざるが故なり。肉体を有する間に神仏のありと信じて念を強くなし居たるものは死して魂の緒の切れざる間に、如意界に直行してここに於て魂の緒は全く切断せらるる結果となる。されど肉体を有する間に神仏を知らざる人は死すれば浮住界に到りて魂の緒は全く失はるる故に、ここに於て苦みを新に起す結果となるはこれ信不信の相違あるによってなり。又信仰厚き人は如意界に於てたとひ空中楼閣をつくり居るとも、ミキョウ達の救ひの手はのびて彼を更に他の定められたる位置迄運ぶが故に、苦みの悩みはまぬがるることもある事は、世人の常識より考ふるもおぼろげに察することを得るならん。故に信ずる力の程度浅きと深きとによって是又相違あることも推して察せらるるならんと思ふなり。例へば死後は如何にともあれ、肉体の有する間に神を作りて如何にと語りしは是なり。なきものをありと信ずれば無は有を現はす。たとへその現はれが空中楼閣を作る結果となるとも、一時にても安住する楽みもありと思はば信じて一時の安楽を得ては如何にと、我等はすすむるものなり。
 無を有に帰せしむると、或は有を無に帰せしむるとの相違は世人も察することを得るならん。智慧と云ふは無を有に化せしむる力を指すにてはあらざるかと先づ考へなば、即ち大なる発見発明は得らるる道理あらん。大なる発明発見はすべて無を有に生ぜしむることを指すならん。さればこの理よりなきものを有として信仰の度をたかめなば、必ずや何ものかを発見することも得らるる道理あらんと思ひて、只管信仰の度をたかめんことを希望む。
 例へば学問浅き人に対して空気中より多くの食料を摂取し得ると語るとも信ずる事難からん。是を学者に云はしむれば彼等は学問浅くして智慧なきが故なりと、嘲り嗤ふと同様にて、我等が死後を語るとも世人に信ずることあたはざるは恰も其と同様ならんと思ふなり。故に智慧をたかめて其によって新しき学理を発見することを得ば、其だけ人智の進化は得らるるにてはあらざるかと思ふが如何 !
 是を迷信なりとして放棄するは余りに智慧なし。否智慧の程度をたかめんとはなさざる故なるべし。世人の諺に木によって魚を求むるが如し、と云ふあり。是はなしてならざる事の譬喩ならん。或時海辺の樹木に数多の魚族は竜巻によって打ち上げられし事ありしが、漁師は木によって魚を求めたりと笑ひたりと云ふ話を聞きたり。されば世人の諺も時にはかかる笑話となる如き過誤はあらざるか。自然の中にはあり難きことと思ふことすら、稀にはあることもあらん。要は自然の応用を巧みに用いると用いざるとの相違によって、如何にとも変化せしむることも敢て至難にはあらざるべし。余事はとにかく魂の緒のつながりあると全く切断せられたるものとの相違は、かくの如き大なる隔となることに留意せざるべからず。今是を人間肉体に於て考ふるも、亦人間修養の道に於て工夫するも亦空しきことにはあらざるべし。

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