未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十四回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 蛇の術とか、蝦蟇の術とか云へる事柄は、霊気の研究には面白き意味を有するものにて、是を唯迷信妄信として、放棄するは至らざるが故なり。敢て愚説として顧ざる人の方が、却て愚人なるべし。猫は鼠をとる。その態度より霊気の研究は得らるる筈なり。 又蛇が鼠を或は蛙を狙ふ態度など、又蝦蟇が空とぶ虫を吸ひ入るる様などより、引力圧力の研究の材料は得らるる筈なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています




絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
           テツシン貴尊講義


 全宇宙より更に宇宙と組織されて、その宇宙の中の一部に作り出されたる汝等が世界と雖も、根は一つにして、たとえ形状の異なりありと雖も、大体の骨組はすべて一つの原理よりその流れを有するによって、小動物に至る迄みな全宇宙の素質に依って現はされたるものなれば、是を根に返せば、悉くは同種のものに化せらるる道理あるなり。故に根より枝葉に至る迄考察せば、全宇宙すべてのものは一つとして、不可分のものはあらじと云ふ理も察せられるならん。例へば霊気を一個の細胞と見なして考へ見よ。我の霊と彼の霊と同じからずと雖も、縁と云ふ法によって是をつながば密接する事は至難にはあらざるならん。例へば汝の思ひを彼に通ぜしめんとならば、先づ彼の霊気の分度を計り、然 してその程度を己が程度と同じ迄に至らしめて、然してその思ひを彼に通ぜしめなば彼は認知することを得るならん。恰も彼の電波と我の電波とを同一にして言葉を送ると同様の関係となるによってなり。通ぜざるは波長の合はざるが故なり。 波長を合はすと云ふは、即ち縁なりとして研究せば汝の声は天に通ず。汝の思ひは天に感ぜしむる事難きにはあらざるならん。行者は朝に夕に此法を研究して機械なくして常に無電を交はし居るなり。霊気の通ずると云ふは此理にして別段不思議なるものにあらず。されどその法が未だ人にさとり居らざるが故に、機械なくしては通ずることあたはざる如く思ひ居れど、衆人悉くが、この法を学び知るならば、無電機械の必要もあらざるならん。 是等の理より種々様々の事柄が古来より伝説となりて、迷信とか妄信とか云ふことを語り居れど、深く根にかへして観察するならば、その迷信妄信はすべて明らかとなることは云ふ迄もなし。諸子は己が知慧にて計ることあたはずば、其は迷信として取り上げず徒らに放棄する傾向あるは、研究力の乏しきが故なり。狐狸に誑かされるとか云へる言葉すら、現在の諸子の世界には研究する人はあらざるならん。もし、是等に関して霊気の研究なし居るものならば、又一種の発見は得らるる筈なり。狐狸の人を誑かすなどはもとより取るに足らざる愚説なれど、霊気の研究より考察するならばここに一種の感想と、新らしき発見は得らるる道のあることには心附かざるならん。 狐狸は人を誑かすとも人は人を誑かすにてはあらざるか。 更に面白きは執念の蛇とか妖怪の猫とか云ふ如き伝説もあるならん。 是等に関しても研究せば面白き事の意味のあるものなり。蛇の術とか、蝦蟇の術とか云へる事柄は、霊気の研究には面白き意味を有するものにて、是を唯迷信妄信として、放棄するは至らざるが故なり。敢て愚説として顧ざる人の方が、却て愚人なるべし。猫は鼠をとる。その態度より霊気の研究は得らるる筈なり。 又蛇が鼠を或は蛙を狙ふ態度など、又蝦蟇が空とぶ虫を吸ひ入るる様などより、引力圧力の研究の材料は得らるる筈なり。余事は兎に角霊気と霊気の交はりが、愛の交はりとなる場合と憎悪の交はりとなる場合の事柄に対して考へ見よ。 愛の交はりは即ち和合にして、憎みの交はりは分離の交はりに相当す。故に愛は引力に合ひ、憎悪は圧力に合ふ。この事柄より霊の研究を更に深く深く進めば、大自然の妙味はしんしんとして尽るところなからん。実に面白き事ならずや。又この研究を重ねる人にあらざれば、天界の如何なるかは認識すること難し。諸子は肉体滅後の如何なるかを知らんとならば、この研究を深くせざれば望は達し難し。故に肉体ある間にこの研究をなして後輩者の為に、導きをなすことに努力せられては如何!


(昭和二十五年三月十日-五月二十五日)

×

非ログインユーザーとして返信する