未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十四回 絶対界 巻の三  絶対界とは如何なるところか 五月 (昭和二十五年) 二十七日のこだま会に於て泰岳が諸子に教へたる呪(まじない)に対して、此呪(まじない)の何なるかを絶対信仰より見るならば、その尊き教へに感謝するならん テツシン貴尊講義

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絶対界 巻の三  絶対界とは如何なるところか
                         テツシン貴尊講義


 絶対界に生れて絶対界に帰る。 もし其が中途にて絶滅するものならば望を達したりとは云ひ難し。 先にも語りし汝は永久汝なりとの説より是を考察する時、絶対界より絶対界にかへるは是その言葉に匹敵す。されど汝に出でて他の彼に変化せば、其は中途挫折して目的を達したるにあらず。 さりながら絶対界より生れたる汝ならば、最後に至って絶対界に帰るの順路あることは察せられるならん。ここに迷ひの生ずるなり。絶対に生れて絶対に至らば、生れし時の絶対と到りし処の絶対とには、相違ありやについて、又新らしき考へを起さざるべからず。 去年の元旦と今年の元旦とは元旦と云ふ言葉に於て同じけれど、事実に於て去年と今年の相違あらん。此事柄より生れし時の絶対と死しての後の絶対とは、等しからずとの疑問を起すは当然なるべし。然りとせば絶対と云ふに対して、不変と云ふ言葉は成立せざるべし。生れし絶対死しての絶対、其が等しからずとならば、絶対にも二種、或は三種の関係ありやとの疑問を起すは当然なるべし。 さりながら諸子の考へは未だ相対考へをぬけきらずしての、考へよりこの疑問を生ずるなり。 何となれば生れて死す。 これ時間空間を考慮し居るが故なり。地球は太陽の周囲を一廻転するには一年の月日を要す。是時間空間を有するが故なり。 去年と今年の相違を考ふるも、是又時間を想像するが故なるべし。 もし是等に対して時間空間をとり去りて、考究する知慧のそなはりが諸子にありや。 先に円海が神も知らざるならんと言ひし言葉に対して諸子は如何に考ふるや。諸子の信仰は相対性の考へより、神を眺め居ること多し。諸子は己にして己を知らずと云ひしに対しても、末ださとるところあらざるなり。円海が己末だ地上に生をうけ居りし古き昔を思ひ出して、諸子の心をさとり居るが故に、斯く語りしも決して偽はりの言葉にてはあらざるなり。 神を措いては他に知るものなからんと云へる言葉あり。其言葉あるに不拘何故円海が斯る言葉を用いしや。円海の言葉は即ち諸子への促しの意味と、他にめざめしめんが為の心より斯くは語りしなり。然るにこの言葉に対して諸子は反射力を起して反問なしたるにはあらざるか。是即ち諸子は心を神にむけたる故なり。諸子は、神は凡てを知らざることなしと思ひ居ながら、何故神の眼をくらます如き行ひをなすや。所謂神は知らじと思ふ心より行ひしか。 然らずば神を疎んずる心より斯る行ひをなし居るがの二つなるべし。然りとせば神を神とせず、神を粗略になし居ることを意味するによって、円海はこの言葉もて汝等の心を引き戻したるに過ぎざるなり。すべて空なるものにて眼に見ることのあたはざる神の存在を、彼是論議するとも証拠だつるもののあらざるが故に、神も知らざる事あるならんと語るとも、神は知ると語るとも唯空論にすぎざる故なり。神は知ると思ふも知らずと思ふも、 其等は諸子の心に神あるか、或は神なきかの二つより出づる言葉にすぎず。諸子の信仰は相対性なるが故に、神は知らずとの言葉ありとも敢て咎むるところなからん。是を絶対信仰より語るならば、即ち神は知り給はざるところなしと云ふ結論となるなり。諸子の信仰は相対なるが故に、円海はかく語りしに他ならず。されば一層眼を深くして神は知り給はざることなしとの境地に迄、進みなば何とて不善の行ひをなすべきことあらんや。諸子は日々善行をなし又は悪行をも敢てするは、即ち相対性信仰の現はれにて、末だ絶対信仰とはなり居らざることを考へて、ここに一段信仰の度を高めよと云ふ意味より円海は斯くも教へたるなり。五月 (昭和二十五年) 二十七日のこだま会に於て泰岳が諸子に教へたる呪(まじない)に対して、此呪(まじない)の何なるかを絶対信仰より見るならば、その尊き教へに感謝するならん。

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