未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十五回 絶対界 巻の三  絶対界とは如何なるところか 現在の学問は相対性絶対を語り居るにすぎずして、真の絶対を明らかになし居る学問にはあらざるなり。故に無より無を追ふて追究せられなば、語ることを得ざるならん。有に於ても同様の関係となるなり。有無に関してすら、是を絶対化せしめて語ることを得ざる学問にて、到底真の絶対を語ること難からん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています


絶対界 巻の三  絶対界とは如何なるところか
             テツシン貴尊講義                                        



 然るに諸子は未だ相対信仰より度脱しあらねば、その意味は察すること難からん。 こだま会の中にて慈音のみが教へを受けざりしは何故ぞ。慈音に聞かすの要なければ泰岳は彼の耳をふさぎたるなり。この例に徴しても諸子は一工夫せざるべからず。 絶対の原理をさとりて、其絶対を目標として進むことによって、目的は成就するなり。是を名づけて絶対より絶対に至ると云ふなり。絶対より絶対へ方向をむけ居らば、すべては絶対にして不変なり。是即ち無始終霊子より、無始終霊子を追ひ求めて尽きることなし。此境地に至ってこそ、初じめて諸子は絶対境に移されたる結果となるなり。諸子の到達するところは絶対にして、 出発せしところも絶対なりしことの理を覚らば、其にて諸子は肉体を有しながら既に絶対界の境地に移されたる人となりたるにて、ここに始めて望は達せられたることに留意せよ。然して其さとりを貯へ居らば、永久神の子として神の許を離るるものにあらず。其後は神より恵まるる徳の稔りが完全となり行きて、ここに初めて神の家に帰る事を許さるるなりと知らば、さとりとはむづかしき理論あるにあらず。 教へられて然あるかとのみの考へにて、何日迄も其教への姿を見守り居りては、無用の書物を眺め居るにすぎず。其書によって己その程度迄至るにあらざれば、真の理を明らむること難し。 知るのみにて行はずば食を眺めて喰はざるに等し。味をききて喰はずば味は味はるるものにあらず。要は食するの他なかるべし。故に早く喰ひてその味を知るべし。
前より語り来りたる如く諸子の考へにては絶対とは、すべて行き詰りとなりたる所を想像するならん。 我等の語る絶対とは行きづまりを指すにあらず。 絶対より相対、相対より又絶対にかへりなば、其ところこそ極致なるが故に、以上進むことあたはず、故に其居を指して絶対と考ふるならば、其は行き詰りにして絶対にはあらざるなり。又かかるところに到達するならば不変性なるが故に、決して安楽の場所とは云ひ難し。所謂死ぬと云ふ他なかるべし。死すと云ふは止まるの意味ならん。即ち止まり止むの意味なるが故に死したるならん。 斯るところを絶対と考ふるが故に、諸子の心は安からざるなり。最後の地点が行きづまりとならば、其は修行するの必要もあらざるなり。 我等の語る全宇宙は無始終なるが故に、絶対と教へ居るにて是を正しく認識するにあらざれば、絶対の意味を曲解して迷ふは当然なり。無始終なるが故に絶対と云ふなり。行づまりを指すにあらず。この意味は容易にさとることは難からん。よって修行せよと云ふなり。 修養修行の力加はらずば、この意味を把握すること得ざるは当然なり。即ち絶対なるが故なり。絶対性原理とは無始終界を指すにて、此事柄をさとらんが為の修養修行に他ならず。諸子は一時的然あるかとのみの考へにて終らば其は行きづまりにて絶対にはあらざるなり。絶対なるが故に果しなく尽きる所あらざるによって、我等は是を絶対と名づけ居るなり。迷ふと云ふも絶対自然の現はれにして、迷はずと云ふも同様なり。故に迷ふとか迷はずとか云ふが如き言葉もて、知らしめんと計るとも、決して諸子の心に貫徹するものにあらず。諸子の魂にこれを明らめしめずば、到底言葉にては明らむること難き故なり。されど是が魂によってその真を探ることを得ば、 此処に初めて絶対の何なるかは知る事を得るなり。絶対を知らんとならば到底諸子の世界の言葉にてはさとり得るものにあらず。 言葉なきさとりにあらざれば絶対を知ること難し。 現在学者間に於て絶対とは是なりとか、相対性原理は是なりとか語り居れど、 其等を我等に云はしむれば相対性絶対を語り居るにて、絶対性絶対にあらざるなり。相対即絶対絶対即相対とは、即ち真の絶対にあらず。帰するところは相対性絶対に他ならざる故なり。 現在の学問は相対性絶対を語り居るにすぎずして、真の絶対を明らかになし居る学問にはあらざるなり。故に無より無を追ふて追究せられなば、語ることを得ざるならん。有に於ても同様の関係となるなり。有無に関してすら、是を絶対化せしめて語ることを得ざる学問にて、到底真の絶対を語ること難からん。 是等はすべて言葉の至らざるが故なり。故に真の絶対を知らんとならば無言詞界の教へを受けずば、絶対の何なるかはさとること難し。されば教主によって教へを受けよ。

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