覚者慈音372

未知日記 第十巻  帰途案内記


                      その29
 五流界の伝説 五味の木について
                            
                  セイキヨウ貴尊 講述


 我等先にも語りし如く空の中にも、亦空の実ありと語りをきたり。即ち空の中の実とは気子光子素を云ふにて、空より更に霊子無始終霊子に返れば真の空となるなり。かく考へを廻らすことによって霊魂不滅の理は察せらるべし。此理を正しく認識する智者学者あるならば、科学と宗教とは別個のものにあらずと云ふ理論は、自づと悟り得る筈なりと断言して憚らざるなり。此理を知らざるが故に宗教と科学とは別個の行動に区分せられ居る如く、誤ちたる道を歩むが故に両立せざるなり。ここに注意することあり。現在伝へられ居る宗教は、すべて宗教の枝葉にして、幹に相当する宗教は、未だ完成なし居らざるが故に、学者は別個のものと考へ居るなり。依て此処に注意なしをくべし。
 即ち学者は有より無を探らんと計り、宗教者は無を有に化せしめんとはかる結果、相互反対の研究となり居るによって相違ある如く感ぜらるれど、つまりは往と復との関係に他ならざるなり。是が相方の完成の結果が同じからざれば、何れかが誤ち居るなり。所謂有より無を、更に無より有の相違あるのみ。有無一体とならば同じかるべき結果とならざれば、等しからざる事は云ふ迄もなからん。もし其が等しからずば何れかがあやまてる道を、作りたる結果なることは異論の余地なし。世人の語るところを聞けば、死したる者より未だ何等の便りをなし来るものあらねば、地獄極楽の有無は知るよしもなし。よって命終らば其にて終りとなるならん。所謂片便りなるによってなりと。是を我等に云はしむれば死したる者は冥途に迷ふ故なり。もし其が明途に至りし者ならば音信は彼の地より来る道理あらん。即ち我等は冥途に堕ちたるにあらず。明途に往生したるが故に世人に対して音信をなし居ると知らば可ならん。此理より宗教と科学とを対照して考究せられんことを望む。
 其兎に角現今世人の世界にさわがれ居る原子論に対しても、是を宗教より考ふれば決して不可分の問題にあらざるなり。我等語り居る五味の木の例より考究し見よ。言葉に於てこそ相違あれ、事実に於て決して相違あるものにあらず。即ち空と云ひし言葉を原子と云ふ言葉に変へて考ふれば、決して不可分の論旨とはならざるべし。我等が語る無始終霊子とか或は霊子又は光子気子なと云ふ言葉は即ち仮称にして、学問の言葉にあらねど是を学語に改めて研究するならば、自づから理解すること難きにあらざるべし。空の力は変化自在なるが故に、或ははなれ或は結合することあれど、無始終霊子は決して破壊せらるるものにあらず。これを学理より究むるも亦宗教上より考案工夫するも、同一の結果となることは云ふ迄もなし。是等を理解せしめんとはかりて五味の木の話を再記なしたるなり。よって一段の工夫を望む。されば味とは何かに対して深く考慮せられんことを

×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。