覚者慈音373  帰途案内記  五流界の世界の伝説  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻  帰途案内記



                      その29
 五流界の伝説   五味の木について
 <地球の科学者達へ>

                           
                  セイキヨウ貴尊 講述


 味とは深長なる意味なり。世人に於て味を悟ることを得ば、五流界仮称魂の世界は確実に認識することを得るなり。今慈音は首をかしげて沈黙したり。是即ち味なり。味あるが故にその味を味はんとて沈黙なしたるなり。沈黙して何ものかを探り出さんとする其思ひこそ、味の一種なるが故なり。味とは語りて知る事の難きものを味と云ふなり。聞きても解せず、語ることも得ず、眼に見えても見る事を得ざる処に潜在なし居る、一種の不可思議なる処に味は存す。此理を追究して深く無始終霊子に迄及ぼさざれば、味の妙は認識し難し。我等の語る言葉に対して、世人は是をさとり得る力ありや。もしありとせば世人は既に味を得たる人なり。味とはかくの如きものにて世人が日々食し居る味の素などは味にあらず。我等の語る味とは口になすとも味はふ事の得ざる味を云ふなり。
 味とは即ち生なり。又勢なり。又希望なり。是等の味を知らざれば生は得がたし。世人の中にも世を厭ひて死を求むる者の言葉を聞けば、味気なき世の中と云ふ言葉を最後として終るにてはあらざるか。味気なしとは生も亦勢も亦希望も尽きたる故に、死を択びたるなるべし。既に魂界の人類はこの五味の木によって生存なし居るにて、他に何等の食物をとり居らざるなり。斯く語らば世人は五味の木の実を食ひて、生き居ると考へなば大なる過誤なり。もとより五味の木は育ち居りて食はんとすれば食はるれど、我の語るところの食とは肉体を指すにあらず。心の食を指したるなり。
 更に亦五流界の下部に於ての伝説に五色の土の事を語りをきたり。是等の伝説も帰するところは五味の木の譬喩と同様なりと知らば可ならん。五色の土に関しての話は、更に後に語る処に又も再記することあるによって予めここに記しをく事としたり。今は語るの要はあらざるなり。我、斯ることを語るとも科学者は是に対して耳を籍すものあらざるべし。若し此説に共鳴する学者あらばその者こそ真の科学者なりと我等は思ふものなり。何となればこの理により何かのさとりを得てその味をさとり、更に其より其へと学理を究むれば、気光素電気の完成を見ることを得るによってなり。現在行はれ居る電気は形ありて作られたるものにして、未だ電気の正体を把握み居る学者はあらざるなり。されどこの我説を知り得てその味なるものに対して方向をむけなば、電気の正体は必ずつかみ得るによって、我は学理を語らず、故意と婉曲的に学者に対して知らしめをく事とせり。

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