覚者慈音25  大霊界  真の拝みとは 我等が説を聞きても疑ふ者は終生信ずる力を養ふこと難からん 教主寛大講議

教主講義   大霊界


 如意界の教えに従ひてこの界のすべてを修め尽くして行終らば、其の後は各所に配属してそのところにて、又新しき任務に順ずるなり。斯くも深淵なる天界の様を、慈音は錯覚作用によって己自ら考えし空想を認めありと思ふや。もし慈音が斯かることを空想して記したりとせば、慈音は偉大な学者ならずや。汝等衆人、然とは考えざるか、疑えば限度なし。我等が説を聞きても疑ふ者は終生信ずる力を養ふこと難からん。斯かる空虚なる事は事実に直面する迄、到底信ぜざれざるは当然なり。慈音を大相場師と思はば思ふも可ならん。此の書を読む者、空想小説として見るも可ならん。其は汝等が衆人の心委せなり。我等は慈音を通じて事実を教へ居るものにて、信ずると信ぜざるとは汝等衆人が心まかせにして、我等が罪科(とが)にはあらず。人間性と動物性すら解する事の難し汝等衆人にして、如何でか未来の真相を究める力あらんや。されば先づ汝等衆人は早く動物性をはなれて、人間性となり、更に仏教に云ふ菩薩道を修得し魂を発見して魂界に進み、然して霊界に入るにあらざればこの理を認識把握することは困難なり。兎に角天界の事柄は参考迄に知らしめをくに止めん。
霊界に進みたらば信の力を得て天界を見きはむることあるによって、我等の説の真なりしことをはじめて知るに至らん。我も語らず慈音も訊かず、言葉なき言葉にて慈音は活眼を開き、斯くも不可思議の妙域に達したるなり。故に我等は彼を愛す、彼は疑はずして我等に従ひ我等の手を握りて放さず。唯々教へを受くることに努力なしつつあるによって、斯くは天眼通を得たるなり。神を知らんとするもの信ぜずば神は現はれじ。信ずるとは疑ひの戸を開きて、自由に出入りを得せしむるにあらざれば、神は入り来らざるべし。

テッシン、セイキョウは衆人に告ぐるに信は拝みなりと教へしに対して諸子は認識なしたるや。我の見る所にては、汝等の拝みは願ひなり。信を得んがための拝みにあらず、願ひの拝みは他に対して、己の希望を成就せしめよと云ふ依頼に他ならざるなり。是は正しき拝みにあらず。拝みする心は信を強うする方法を云ふなり。
汝等衆人の肉体は日々拝みなし居るにてはあらざるか。朝に食ひ、夕に眠る。是拝みなり。其は肉体の拝みにして心の拝みにあらず。肉体は拝みなして心は拝みをなさざれば飢ゆるの他なし。されば心の拝みせよ。心の拝みとは修養の法なるべし。然とは考へざるや。天界は広大無辺なり。地球は長からず。やがては亡びん。亡びざる天界に入らんとするならば、何を以て是に至らしむべきかに思ひを廻らせよ。肉体も亡び地球も亡ぶ、されど何ものか亡びざるものの残存なし居るとは考へざるや。空は亡びざるが故に今尚新しき世界は現出なし居るにてはあらざるか。太陽系宇宙は明滅して現れては消え、消えては現はる。されど空は平然として変化することなし。汝等衆人のすむ太陽系宇宙は何日は亡ぶることあり。広大無辺の如く考へらるる太陽系宇宙に於いてすら、何日かは来るなり。
されど空は空にして永久不変なり。終始の定めなきが故に亡びざるなり。この理あるによって汝等衆人に与へられたる魂は、終始なき空なるが故に亡びず。永久不変なることも察せられるならん。我もテッシン、セイキョウも亡びざる境涯にをかれて、任務に順じ居るが故に、永久安らかにして危きをまぬがれ居るなり。


我と慈音の場合、我は無にして慈音は有なり。我は無形にして慈音は有形なり。されど我の無言詞は慈音に伝はりて有言となりて現はる。是距離を有せざるが故なり。もし距離あらば通ぜざるべし。我と慈声は距離あり。距離あるによって通ぜざるなり。慈声にして距離を作らざれば我と彼女は一体化せん。故に慈声が拝みすることによって距離をとり去らば、我と一体化することは恰も慈音と我との如くならん。ここに於いて拝みは大切となるなり。
もとより慈声と我とはえにしによって一体化なすべき居にあるに不拘、慈声は有形の世界を観望して、無形の世界に眼を移さざるによって、恰も遠近の友の如く距離を作り居るなり。この理を解しなば慈声も覚らざるべからず。覚りとは些少の距離をとることを云ふなり。慈音は距離をとりたるが故に、我等と自由の交わりをなす。是差をとりたるが故なり。

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