覚者慈音24    衛藤慈声著   こだま会の発足

こだま会の発足 その続き


「貴女が ?  ご冗談でしょう。其れは私のことですわ。お恥ずかしくっていままで口にだせなかったのですけど」
とB婦人が応じました。すると他の二人の婦人達も同じことを告白して他の同情を求めました。
私は深い興味をもって是等婦人達の言葉を黙々と聞いて居りました。
貴尊は人をせめ,非難する如き言辞は一度も口に上せられなかったし,又,宗教家の如き言葉遣いは決してなさらなかったのである。
其れにも拘わらず,男子のなかにも婦人達と同じ意味の言葉を口にして苦笑を洩らす者も居たのである。斯うした人心の動揺は集会を重ね,日を経つにつれて益々はげしく著しくなった。かくのごとき心理的反応を惹き起こしたことについて,私は唯,言い様のないもの,深い感じを受けておりました。
すると,「ひどいわ」とか「いやだわ」とか云って激しい反発をみせて姿を消した婦人達はひどくなにかこころを傷つけられたように見えた。男子の中にも何時となく会から遠のいた人も居りました。
「先生,是は一体どうしたわけですか」と私は訊かずに居られませんでした。「うむうむ」と慈音は口ごもるだけで何も説明してくれませんでした。
私は追求を止めました。いづれ解らせていただく日は来るであろうと。
そしてその日は思ったよりも速く来たのでした。
貴尊は人々の心に語り聴かす事をせず,魂に語り聴かせておられたのでした。



「円海が常にこだま会に於いて語り居る講義においてすら,皆各自聴衆者に異なりたる感銘を与え居るについて,語る言葉は一なれど感ぜしむる相違は聴く者をして一種の感じを与え居ることは,是即ち法力を用い居るに依ってなり。」「積極的方法は従来の方法とは異なり,いささか苦痛を伴ううべけれど,屈せず撓まず修行せば必ず成就疑いなきことを保証すべし。
常識に富みたる人ならば消極的修養によつて安全に苦しまずして大悟徹底するを得れど,現今の日本人の如く糸の切れたる凧の如き姿なる人間にありては積極的方法に依って此の糸を結び止めて飛散せしめざるよう喰い止めずば再起再建すめること難かるべし。」と未知日記に記録せしめられたのであった。


良師の良薬なるにより利き過ぎて,腹痛や下痢を起こす憂いはない筈であったが,矢張り強すぎたのであろうか。然し,これはこだま会の会員のみを指すのではないのである。
又,教主は「こだま会の会員こそしあわせものなり。円海は言葉(心魂和合法)をもって導き,泰岳は無言詞(誘魂法)にて導く。世の中に種々様々の宗教あれどこだま会程大なる力もて育てられおる会は類稀なるべし。其は余りに他の宗教とかけ離れたる組織なるが故に,会員はこれを軽く見る傾向あるは実にあさはかなる者共なりと云う他なからん。慈音にして一般宗教者の如き振る舞いをなすならば,泰岳も円海も席を蹴って立ち帰るならん。泰岳,円海は百万の集会者よりも正しき一人の信仰者にて可なりと思い居るが故に慈音を離れざるなり。」と仰せられた。


此の真意を理解認識なし得る者は容易に育たなかったのでした。勿論,日本人は遠き先祖の時代から心魂霊の区別は教えられておりました。然し,正しい教えは育たず,年月を経るにつれて肉体本位の生活をするようになってしまい魂の事を忘れてしまいましたので,哀れと思し召してこその貴尊の苦言もこちらの受け取り方が悪くて耳に逆つたまででした。
然し,此の心の動揺にも拘わらず,残留した人々は一度はキリスト教や仏教の門をくぐった人々であったことも私には興味がありました。
コーセィ.ミキョウ貴尊が在世時の泰岳として会に臨まれたのは,こだま会成立後相当の日数が経ってからでありました。それまでに会員は円海大師を通じて何とはなしに親愛の情を抱くように導かれておりました。
「泰岳さんはお香がお好きぢやそうな。今頃手に入りましょうかねえ,如何ぢやろうか。」と慈音は云われました。いよいよ泰岳大師が臨席されると決まってからでした。
「さあ,如何でしょうか」
私も半信半疑でした。敗戦の結果,世をあげてまだ日本は混乱の最中にありました。財閥は解体され,秀才は職に迷い,地主は土地を失い,衣食をもとめて人々は右往左往する時代でありました。私は考えました。「焼かれなかったお家には以前の貯えが少しくらい残っているかも知れませんねえ」
「そこはあなたのいい様にまかせますよ」と慈音は云われました。
私は見当をつけてお願いしてみました。一軒あたりの貯えは僅少でも貰い集めてみると或期間は充分に間に合う量がありました。
泰岳大師は幼い頃から親兄弟をはじめ周囲の人々から愚者扱いを受けた聖者である。そのお方がお香を焚いていて娯しまれたとはちょつと考えれなかったが,私は慈音の指示に素直に従った。
然し,間もなく真相は私にもわかりました。お香を焚くことによって,会員の心気を沈め,気を整える方便の薫香でありました。日本,中国で焚香の習慣が出来たのはその発する源は重大意義を含んでいたのでありましょう。其れが日本で死者に供えて香を焚くようになったのは,死別によって気の転倒して居る肉親者達の心を沈め,且つ空気消毒を兼ねたものであることをある日,私は慈音から説明を受けました。
世が移るにつれ最初の真意が見失われて,果ては廃れ行くものは多いと思います。「泰岳さんは今日からお見えになる。」と聞かされた時,一座の上には何となくかすかなどよめきが感じられました。大痴の大師が聖者となられたと聞いては格別の感じをもつのが常人でありましょう。


「わしは子供の時からよくまんまんさんを拝んたぞな。皆さんもまんまんさまを拝みなされや。まんまんさまを粗末にしてはいけませんぞな。」と幼児の如き声音で幼児言葉が発せられた時,会員一同の面上には微笑の影が拡がっておりました。然るに,慈音の何となく変貌した姿も会員達は見逃してはいなかったのです。円熟した老媼の如き柔和さに,思わずその膝に寄り添いたいような衝動を受けた人々は一瞬にしてとまどいを感じて居づまいを正したのでした。一座はシーンとしたのでした。

「彼は慈音を愛し,こだま会には欠かさず慈音に至りて無言詞を送りて指導をなしおれど,姿を現すにあらねば会員の人達は別段意中に止めおらざれど,会員に与え居る無言詞の力は実に尊し。」と教主は仰せられました。
三分 泰岳大師が臨席されるようになってから三者三様の姿が次第に,明確に会員の眼にも映っていたはずでした。
慈音の病弱にして老齢の肉体に依って,斯くも鮮明に円海,泰岳,慈音自身,三者三様の姿を髣髴とさせ,何のごまかしも手品も演技もなく,素で現わされたその現象が舞台の上の俳優の演技と同一に看過されてよい筈のものではありません。然し,集まる人々が受けた印象,感銘には明白に強弱,厚薄が看取されました。受くる人の個性によって現在の現れには非常に大きな差があらわれておりました。然し,一度受けた魂の感銘は意識の表面に出る時間的遅速はあっても,其れが如何なるものであるかを私は此の眼で見てきました。
こだま会の会員数が増加するにつれ,慈音は会員から個人的な相談をもちかけられました。其の取り次ぎ役を私もよく頼まれました。しかし,いかなる些細のことでも,彼は彼自身の意見は述べませんでした。いちいち貴尊に尋ねた上で返答したのですが,それには深い理由があった。


「慈音は座禅に依って自得見性したりと悦び居たりしも,即ち魂(こん)を見たるに過ぎざりしなり。さればこそ彼は禅をなさざれば直ちに基に復して影を見る能はざりしなり。一般僧たちの中にすら非常に優れたる者も魄(はく)を引き出して,仏の如く誤認し居るも少なからずあるなり。さればこそ,慈音は従来座禅より受けたる魂(こん)を霊と感じ居るを教主は知り給へるによりて,今日まで固く戒めて他よりの質問に対しても明答を避けしめられたるなり。故に,我は慈音をして生涯斯る一方的誤まれる悟道を打破するを得せしめたるなり。故に,今日まで慈音は迷いに迷いて稍もすれば信仰を棄てんと計りしことも屡々なりき,然れども,我は彼の信仰を厚からしめん為に,魂(こん)の覚りと魄(はく)の覚りとの区別を今日まで語らざりしなり。いま我これを語れるによって,慈音は全く迷夢より醒めて感謝しつつあるは,我も多とす。
そして尚有り難きは教主の愛なり。我等が教えし自問自答の法の他に頭腹一体の法を教えられて,心,意,魂,魄一如の法を完全ならしめたり。」と


以上の如き事情に依るのでありました。そして彼は遂に霊化の行を達成全うしたのであるが,此の謹慎は昇天の日までかわりませんでした。


「慈音よ,汝は既に是等の理論をよくわきまえ事実の証明を得て既に悟り居るにてはあらざるか。然るに,欣情(慈声)をはじめ世人を欺き,更に我も欺かんとなすや。欣情は欺き得るとも我は欺かるる者にあらず,汝の意中は那辺にあるかも我はよく知る。汝は余りに己を低くなしおりて,却って罪を犯す結果をもたらし居るは何という浅智慧ぞ,きびしく叱らんとは思えど,汝の心は欣情をして,正しき大悟を得せしめんとの情心を現し居る事を知るに依って咎むる事はなさざるべし。さりながら今後と雖も斯る振る舞いをなすことなかれ。」とミキョウ貴尊は注意を与えられたのでした。


慈音自身は是に対して
「わしの個人的意見だと云っても,もしわしの周囲の者はそうとるまいからな。
故に少しの誤りがあっても申し訳ないと思って 」と云われておりました。この慎みが彼に言葉を含ませて無口にしたのでした。必要なことも家族に対してさえ言葉少なくなつて居りました。然し,私もその間の事情は次第に飲み込めて来たのです。例え慈音が貴尊方の返答を得て告げ知らせたとしても,是を受け取る人々の力不足,智慧の未熟から運用を誤り早合点,早呑見込みから結果は悪くすることは屡々ありました。
そして其の責任は他には行かないのです。
如何に自己反省の力の弱いかを人々の行動によつて見せられた。
わたしは常に其れを他人事とは感じられませんでした。又,初めから結果は否とわかっている事でも,一例を云えば縁談の如き,否と明言して初めから中止させては未練が残る場合が多い。
このような場合,慈音は「まあ,話し合って見ることですな」と云ったような返事をする場合はおおかった。そして結果矢張り否である時,其の人は「先生はああ仰ったが駄目だった。」となるのでした。
斯うした行き違いを私はイヤと云う程慈音のそばで経験したのでした。故に「一寸,先生に訊いててみてよ」と心やすだてに取り次ぎを頼まれることが彼には苦痛にさえなりました。又,金儲けや僥倖を願う相談には,慈音は唯ニコニコと笑っていて決して応じませんでした。
その前に座れば其の人の三世を見抜いて居る霊智の人と,障子一枚隔てれば何も見えず解らぬ人智の人との隔たりは,世の人の想像の及ばないものでした。然して,事毎にこの広大な間隔を見て暮らす私には,私自身が目前の世事にあくせくして暮らす迷妄の人間であるだけに,己の未行未熟を自覚するが故に,薄氷を踏みて毎日を生きる人の世の哀れを肝に命じて居りました。
然し,こう書いて居る今,幾人の人が私の此の心情に理解を持つて呉れるであろうか。私には地上に於ける慈音の立場もわかってくるようでした。
こだま会は慈音の秘伝の修行の進行に伴い,彼の肉体的条件の悪い場合は休会を余儀なくされました。然し曲がりなりにも継続して年月はまたたく間に過ぎたのです。
円海大師が易学の講義をなす由を知らされた会員達は,急に元気づき色めきました。大師は易学(先天の易)の薀奥をきわめられた方でした。易といえば,日本では子供でも知っている。然し易占や売卜を迷信視する日本社会の反面では,易者の門をくぐる文化人,智識人も決して少数ではないのが実状でありましょう。
然し,円海大師がこだま会にて講じられようとする易学は,現在の民間に普及されておる易学ではない。其れ等は後天の易と称されるもので,是から円海大師に依って講じられようとして居る先天の易の枝葉末梢的のものである。従って,易学の根幹とは程遠いものである。
天界の学問の一部と称されるこの先天の易学は全宇宙発現の原理を探る立体自然原理を究明する科学である。最高級の有機数学と称せられる所以のものであります。その法則の一部が東洋音楽原理となった大気音波観測法,即ち波長の究明である。



先天の易学は今日迄専ら深山幽谷にて行ぜられる真正なる行者の間でのみ実施応用されて来たのであるが,未だ民間には非公開の書であると私は聞いて居ります。其れがこのたび未知日記に依って一般人類(地球人類)に公開される訳であります。

故に,未知日記の講義は
「諸子の世界には天界の学問はあらざるなり。故に我等の伝え居る事柄は天界の学問なりとして学ばば可ならん。汝等の世界に於いて広く学びたる学問を応用して,其学問に依って推理力を伸ばし天界を究めんとなすとも及ばず。其は唯,虚なるが故なり。」と貴尊は教示されて居る。
然し,信不信は読者の心任せに願わねばなりません。円海大師のこだま会に於ける易学講義は現代自然科学の方程式にもにて数学の羅列であった。その数学の羅列のみを筆記して数カ月を経過した。会員は誠に熱心であった。


「こだま会の人達に,円海が人間には魂あり魂を見つけよと教えたれど,彼等は身心にのみ思いをはせ,唯肉体の健康とか或いは肉体の栄華を計らんがために行をなし居るに依って身心の執着の度たかまり,魂の方向には眼を向けず遠ざかり居るに依って大切なるものを発見する能わず,為に魂を見つけんとして却って身心に執着の度をたかめ居るは彼等の今日の姿なり。
故に慈音,円海の言葉を肉体の方向にのみ任せて,心を魂の方向に向けんとはせず,その為に慈音円海の言葉を曲解して苦しみ居るなり。若し慈音が宗教者なりせば巧みに彼等の肉体に対して楽しみを与え,其れに依って心を魂に向くる方法を教ゆるならん。されど慈音は宗教者としてたち居るにあらず。故にその教えをなさざるなり。」

 又
「円海はこの事を知るに依って易学の方面より彼等を導かんとなし居りしに,彼等は却って其れを曲解して訳もなき他方面に心を馳せ居る為却ってその易学のために禍をまねかんことを慮って,円海は中途より是を停止するに至りたり。正しきことを教えて却って迷わする結果とならば労して功なきを悟りたるなり。
円海も宗教者にあらず。我等の意中を汲みて唯すべての衆生を導かんとする老婆心の現れなり。若し円海が宗教者として汝等にまみゆるならば彼は思うがままの姿を現して,汝等が目前に至らん。斯ることは行者にとりていと易きことなり。もし円海が姿を現して説教するならば,汝等は平伏して随喜の涙を流して彼の説をいちいち真と思いて従うならん。
円海が姿を現さざるは真を曲げて虚偽を示すを恥じろうに依ってなり。」
と講義を中途にて打ち切られた理由を明らかにされた。


会員達には何の予告も説明も与えられず打ち切られた時,彼等は明らかに落胆した。何故かと云う人も居なかった。然し,自ら其の智識を得て卜占をして将来の打開を計りたいと考ゆるものも現代の如き社会状態の中にあっては一面無理ではなかった。勿論其は地上の目前の事にあくせくして生きる人間として。東京の銀座を行く大半は外国兵であった。罪なくして路に殺される日本人さえあったのである。易占や売卜に何極倍も優る霊智の明示の真の意義は汲み取れず,自らの魂を見いだして是を育成する事の大切なる理由を遂にのみこめなかつた。


泰岳大師は会に臨まれても言葉を発せられることは稀でした。又発言されても幼児言葉で極めて短いものでした。多くの場合否,殆どいつも慈音の手に掛けた念珠を上下左右に振り動かれただけで退席されました。その間,わずかに二,そして,この時会員の大半以上が会を去つた。然し慈音は一言半句も其れについては口に出さなかった。私とてそんなことを取り上げる程初心者ではなかった。また残った会員達も去った人々の事は口に上せなかった。


昭和二十八年十二月十八日慈音は地上での使命を完遂して天に召された。会員は又一人去り,或者は国外に去り,或いは死すなど。昭和三十八年にこだま会は有名無実となったのであります。十幾年を経た今日振り出しに戻って同行五人となったが,たとえその歩行は遅々として居ようとも躓くことなく私達は天界に迄歩み続けるであろう。
然して幸いにして坂本通博が自分の為に筆記していたこだま会の講演日誌は私すべきではないとの判断から公開に踏みきったものであります。

衛藤慈声

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