未知日記霊話集  第六百三十四回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1315
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 169
更に八七六流界に到る迄
姓名判断について       
                 セイキョウ貴尊 講述                     


 ここに一例をあぐれば近頃迷信として取り扱はれ居る、姓名判断なるものについても、我等に云はしむれば滑稽なる事多し。例へば汝の姓名はと聞かれし時、我は馬鹿と云ふ姓名なりと語る人ありや。もし汝の親が汝に馬鹿と云ふ名を与へしとして考へ見よ。至って滑稽なる事にてはあらざるか。我は馬鹿なりと云ふ言葉は用いずして、他に姓名を変更せんと計るは当然なるべし。斯る分りきりたる姓名判断を彼是論議するの要もなからん。究むれば訳もなき事なり。然るを大袈裟に種々様々考へて姓名に依て、人間は向上発達するなどと考ふるは、実に滑稽なる事にてはあらざるか。もし汝の姓名がよき名なれば、我の姓名はこの位置に迄到達する智慧はそなはるが故に、我は将来有望の人間となるならんと、その姓名に依て目的の方向に進むならば、其人は確かに成功することもあらん。姓名は生涯其人の心に感銘する暗示となりてはたらく故なり。
 所謂姓名は其人を励ます一種の言葉にてはあらざるかを考へなば、迷信か正信かの原理は自づと察せられるにてはあらざるか。如何によき名を附けたりとて、無意義に考へなば其は空しくして、暗示とはならざるなり。姓名は即ち其人に対しての暗示の言葉に他ならずと考ふれば其にて可ならん。親は我児に対して馬鹿と云ふ名は附けざるべし。是その子に対して暗示とならば子は生涯馬鹿にて終らん。されど暗示とならざれば馬鹿も賢者となるなり。是等の例より考ふる時、神に詣でてお守りと称する護符を持ち帰りて肌身に附け居らば、我には神の守護ありと云ふ一つの暗示より、己が心に不安を感ぜず。故にその信念が働きとなりて、危ふきをまぬがるる事も少なからずあるならん。斯く考へを進めなばまじない祈禱等の事柄も、敢て迷信として根絶するの要もなからん。又是が其人に暗示とならざれば、何等の効果あらざるが故に利目もあらざるなり。訳もなきまじなひにて其が暗示とならば、治癒らぬと思ひ居りし病気も治癒することあらん。所謂まじないがその人の暗示となりて働きとなりたるなり。敢て不審するにはあたらざるなり。斯る分りきりたる事柄に対してすら、世人は彼是争ひて種々様々批判する如きは、己の無智をさらしてはずかしめを受け居るに過ぎざるなり。実に滑稽なる事にてはあらざるか。まじなひ加持祈祷護符等は、すべて暗示の一種なりと思はば、其にてすべては解決すべし。敢て彼是論議するの要もなからん。

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