未知日記霊話集  第六百二十四回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1305
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 159
更に八七六流界に到る迄
                 セイキョウ貴尊 講述
 

 誰かの句に「我心たづね求むる思ひこそ、心なりとは気づかざりけり」と云ふあり。又「我心我身に在りと知りながら、眼にさへ見えず手にもさぐれじ」実に面白き句にてはあらずや。或出家山にありて座禅工夫し、さとりを開らきたりと思ひて山を下りたるに、路にて会ひし老婆が出家に向ひて、「さとりを開らきたる心とは如何なるものぞ。我に見せよ」と手を差し延べて「ここにのせよ」と云ひたれば、出家は驚きて我未だ真のさとりを得たるにあらずとて、再び山に帰りたりと云ふ。此例話は前書にも掲げたり。又或僧は一人の修験者より汝の心何処にありやとたづねられて、「我肚にあり」と答へしに、修験者刃をぬきて、「然らば我、腹を裂きて汝の心を見ん」と迫りたる時彼、行者に向ひて「汝木をさきて花の在所を知るや」と云ひしかば、彼笑ひて刃を納めて、立ち去りたりと云ふ例話もあるなり。是等の譬喩の如く、我心は我心を知らずして、右往左往たづね求め居るが故に、心は常に動揺して恰も小児が我影を踏んと駈け廻る遊戯の如く、何処に至るも我影は失せざるなり。
 鏡を見ずば汝は汝の顔を見る事あたざるべし。所謂汝にありて汝に見えざる心は即ち汝なり。されば心の何処にありやをたづぬるならば、そのたづぬる心こそ我なりと思ひて、是を確かに我ものとせば、心は自由の行動をなす事を得るなり。斯くして己が心を自由ならしむる事によって、初めて肉体との関係を知る事を得ば、接触せんとせば接触し、分離せんとせば分離することも自由なり。斯くして心に自由を与へしむれば、心は魂にも順じ、又場合によりては肉体にも順ず。心に自由を與へざるが故に心は傷き悩むなり。心に自由を与ふるとも、決して天涯へ飛び去りて帰り来らずと云ふことなし。天涯へ行かんとすれば天涯へ放ちやるべし。地界へもぐらんとせば又地界へ放ちやるべし。心に傷けずば悪き行為をなすものにあらず。心を自由にせざるが故に心は肉体に縛られ、為に潜在意識を働す事をせざるなり。静座工夫して心を肚の中に押し込めをくは、恰も罪人を獄舎に投じたるに等し。払へども去らぬ邪念妄想は是又心なれど、その心に自由を与へざるが故に、右往左往と迷ひ諸々の空想は湧き出づるなり。徒らに肉体に縛りつけて自由を与えへざるが故に、斯くも右往左往迷ふなり。其は恰も凧を飛ばしたると同様にて、糸めを縛りつけあるによつて風のまにまに右往左往なし居るに等し。盗みせず、邪淫せず、罪を犯さぬ心に変ぜしめたる汝の心は、最早かかる不必要なることをなすに及ばじ。最早一人前となりたるなれば、何処へとも行動の自由を心に与へよ。即ち是を仏教にては放心法と云ふなり。

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