未知日記霊話集  第六百五回  帰途案内記  転界の巻 八流界の例話  ミキョウ貴尊講義

覚者慈音1284
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 139
八流界の例話


                 セイキョウ貴尊 講述

 今ミキョウが語りし如く、前書に於て神となりても其は何になる事ぞと云ひし言葉は、余儀なき明らめにして、万感尽きての言葉なりし故に、是は取るに足らざる言葉なりしが、同じ言葉の如く思はるるこの例話の意味はきはめて深し。何となればこの人は修養修行をつみて、然して後に発したる言葉なればなり。きはめ尽しても、明らめ得られざるが故に、尚もきはめ然して発したる真の明らめより現はされたるが故に、同じ言葉に於ても彼と是とは大なる理を異にす。さりながら前者も、後者も帰する処の意味は一なり。その一つの意味が、一方は棄て、一方は何か捨て難きものの存じ居るにて、それ棄てたりと、(捨てたると、)捨てがたきとの関係は、一見小さく見ゆれど事実は然らず。さりながらこの両者の、捨てたりと思ふも捨てたるにあらず。棄てがたきと思ふも亦棄てたるにあらず。何かその中に潜在せる一種の希望が、前途にをかれ居るなり。世人は人に生れて人を知らず。一生を送りても尚人を知らざるべし。大凡人に生れて人を知る人はあらざるなり。されば何故に人に生れしかをすら知らざる者の、何とて人を知ることを得んや。人にして人を知らざるもの、何とて生死を明らむる事を得んや。さればこそ生きて居りて何になる事ぞの疑ひは生ずるなり。日々同じ事をなしながら尚も生きたしと思ふ心は、何故かすら知らざるならん。喰ひて眠り起きて喰ふ。喰はんが為に人は生れたるか。生れしため喰ふべきかすら知るものは少なし。よく世人の口にする処なるが、我等は働かんが為に喰ふなりと。然らばその働きとは何か。又何のために働くかと聞かれなば、其にすら明確なる答へをなすものは少なからん。多くの場合人は喰はんがために働き居る人は多かるべし。かく追究せらるれば、如何なることの為に生きて居るかすら知らざる者の多き中に、ましてや人を離れて、神を考ふるとも其は及ばざることならんと思ひて、修養修行をなさず、又神を知らんとも思はず、一生を空しくする人は多からん。その中にありて種々様々の事柄をきはめ尽して、尚前途に希望ををく智者達の考へを、世人に語るとも認識する事の難きは当然なり。されど神になりて、其は何になる事ぞの処迄きはめ尽すにあらざれば、人として生れし有難味を味はふことは難からん。

×

非ログインユーザーとして返信する