覚者慈音270

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO217
大霊界入門記    後編                 
第五、ギョウ 実地門 (仮称) 一名就業門 (仮称) とも云ふ                                                   その3
                       教主寛大講述


 泰岳が抱き来りたる九流界の幼児にもクゥワオは及ばざるなり。九流界の幼児は既に汝等人間界の学徳は、既にそなはりあるによって最早汝等諸子の世界の、学問は学ぶの必要はあらざるなり。まして四大前門を卒業したる者、全宇宙を知らじと云ふことなきは当然なり。ギョウの門に入りたる者の今後の学すべき事柄は如何にと云ふに、彼等は最早神の声を聞くことを得たるによって、命ぜらるるがままに行動をなすなり。
 声なき神の声を聞き姿なき神の姿を知る。されど神に接触することは許されざるなり。我かく語らば汝等諸子は云ふならん。神は常に我等にあり、決して離るるものにあらずと云ふは虚論なりやと。斯る考へは時間空間距離を有する点より思ひつきたるあらはれにて、宇宙全土神の至らざる所なし。されど神に接触することを許されずと語りたる点より諸子は迷ひの心を起すなり。然して神とは斯る手きびしいものなるやとの考へも生ずるならん。其は汝等としては無理ならぬことなり。故に修養修業を重ねずば、この意味を理解することあたはず。神は決して厳格なるものにあらず。もし汝等にして真の神を知ることを得ば忽然として神は現る。されど修養修業の徳によって神に接触する所迄行ぜずば至るも甲斐なし。故に神は是を許さざるなり。許すと云へば言葉の語弊あるやも計られず。されど是等も言葉の符号より用い居るにて、許すとか許されぬとか云ふ汝等諸子の世界の意味と、全々異なることと承知せよ。もし汝等諸子にして行徳高くならば神の処に入ることも、或は住居することも何等差支なきなり。誤まち考ふることなかれ。其は兎に角、声なき神の声を聞きて命ぜらるるがままに行動して、己が行徳を積み重ね、然して最後には神と共にはてしなき生活をなすことを得るなり。斯くならば最早修養修業の頂点に達したるによって、その後は行ずる必要もなく、神と共に全宇宙を支配する圏内に入るなり。されば其後は相対或は複相対複々相対と幹を伸し枝を繁らせ、更に全宇宙を全からしめて余すところなく建設より建設へと、安楽の世界を組織することに従事するなり。其は今後の事にて今はギョウの門なるによって唯行にいそしむ。四大前門を卒業して今は又後門ギョウの実地門(仮称)に入りたる修養は、チッの門に於て修めたる事柄を、此ギョウの門に実地にうつして研究するなり。是を四撰の法則より計算すればチッ、シュ、キュ、ジョゥの四つが終りて、更に又ギョウの破壊に入りたるたれば、チッとギョウは共に破壊の役目を有す。大自然は斯くも微妙なる法則を有し居るによってチッの門の赤子がギョウの門に移されてその育ち方の方法を、実地に学ぶことを得るなり。


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