覚者慈音269 未知日記講義第一二巻  大霊界 ギョウ 実地門 (仮称) 一名就業門 (仮称)   教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO216
大霊界入門記    後編                 
第五、ギョウ 実地門 (仮称) 一名就業門 (仮称) とも云ふ                                                   その2
                       教主寛大講述


 我、慈音に向いて汝羨ましきかと訊ねしに、彼曰く、「有難しとは思へど羨ましとは思はざるなり」と答へたり。諸子と慈音との隔は些細なる事に居ても斯くの如し。慈音は既に羨み妬みの如きわづらひの心は消滅なし居るによってなり。汝等諸子と雖もこの所に迄進みなば、天界の様は明白に眼に映る筈なり。他人の立身出世を羨み妬む心のある間は、天界はをろか一寸先は暗と云ふの他なかるべし。他人の立身出世を我ものとして否我事として考へ見よ。然る時は喜びの心に変るならん。されど未だ喜悦の心を起す間は修業の到らざるが故なり。兼ねて語りし如くきく女の如き性質に変らば、既に天界は許されたるものなり。我、楽みより楽みの連続と語り居るも、実は汝等に教ゆる言葉のあやに過ぎざるなり。楽みと云ふも亦迷ひなり。喜悦と云ふも迷ひなり。是等の心を起すは未だ行中にありて励み居る姿に他ならず。行終らば喜び楽みの心は唯慈悲に変ず。喜怒哀楽すべて除去せられ、然して其が慈悲の心、慈愛の心に化せられて、始めて行は終りに近くなりたるなり。行終らば慈悲の心もなく又慈愛の念も消滅す。然して唯空と光明とに化せられての後は、言葉は其以上語ることを得ざるなり。是無言詞界大霊界の人となりたる現はれなり。既に大霊界前門を行じ終りたるものの程度は、如何に語るとも汝等には解すること難し。されば今後我等が語る事柄は、すべて汝等諸子に通ぜしむる言葉にして喜び楽みとか云ふ如き言葉を以て語るとも、其は汝等の喜悦楽みとは全々其意味を異にす。のみならずその言葉はすべて符号のあらはれにすぎずと思いて聞くべし。然らずば迷ひのみ多くなりて一大事を学すること難からん。よって注意迄に語りをくべし。
 さてギョウの門に入りたる者の姿は如何にと云ふに、彼等はすべて光明の力にて働く。故に耳眼口鼻身体手足に至る迄すべては光明なり。その輝きは距離をきらはず何処如何なる所にも通ず。声又然り。音又然り。空実の区別なくすべてに通ず。是等は四大前門に於てすべての方法を学し終りたるが故に、今後は事実に於て是をなさんとする程度にをかれたるなり。仮に是を汝等の世界にあてはめて語るならば、先づ他人の話を聞きながら、他の他人にすべてを教へ、手はものを作り、足は自由にはたらき、其が一時に事をなすによって肉体全部が秒時も休むことなく、足は足手は手、耳眼口鼻同時に働きをなすとして考へ見よ。汝等斯ることをなし得るや。是等は九流界のクゥワオと云ふ動物にすらその具備はあるなり。クゥワオは動物にてありながら手は手の働きをなし、足は足として自由に是を働かせ得る具備はあるに不拘、動物は動物なり。されば四大前門を学したる者の相違は那辺にありや。即ちクゥワオは人間としてのはたらきはあらざるなり。唯形の具備が具足し居るにすぎず。されど是は動物性にして、人間性の具備にあらねば人間の如き働きをなすこと能はざるなり。クゥワオは空かけんとすれば空もかけり、海原を歩まんとせばその備はりもあれど、四大門を卒業したるものは光明なるが故に、居ながら自由を得るなり。駈んせずとも駈けることを得、聞かんとすれば遠近を嫌は耳にし、言はんとすれば是又遠近を嫌はず語ることも自由自在にして、みな其々の程度に従ひてすべてを撫育す。是等はクゥワオとの相違あるによってなり。

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