覚者慈音264


 本論に入る前に、一筆申し添えることがあります。
 この大霊界を転記し終えたなら、次ぎに光明論に説かれている教主の清めの詞を転記してまいりたいと考えております。この詞は僅か三ペ-ジ程のものですが、セイキョウ貴尊が五〇ペ-ジ余りにわたって詳細に解説されています。とても重要なものです。
それと衛藤慈声先生が初めて未知日記を読まれる方 の為に書き記した、未知日記の紹介文も併せて転記する予定です。(これは八ぺ-ジ程の小冊子です)

 僕は何年か前にこの未知日記全巻を家族のためにコピー機を買ってA3判に拡大コピ-したことがあります。原書は字も小さく文章も余白がないほどびっしりと詰まっていて、老人の眼には僕も含めて、なかなか読みづらいものでした。当時九〇才を過ぎていた母親もその拡大版を机に広げてよく読んでおりました。その姿は僕にとって、とても有り難い光景でした。母は十七才の頃、自分の父親に連れられ信仰の道(日本神道)へと入り、その縁でもって、今僕もこうして未知日記を読まさせて戴く機縁となっている。いわば祖父は僕にとっても導きの親ともいうべき存在です。母の言によれば、祖父は若き時から信仰の道を模索していたようで、今日は此処の門、明日は彼方の門とそこら中の教えを聞きまくっていたそうです。祖父の友人、知己などはたえず一カ所に安住することなく始終転々とするその様をみて嘲り、股のぞきの××さんと揶揄されたそうな。でも僕に云わせればたえず何かを求め続けて、漸く自分の得心する教えに出会えた祖父は立派だったと思います。祖父の喜悦や如何であったかは想像に難くはない。
 母は祖父の晩年に生まれた一人娘で、僕から云うのもちょつと気が引けるけど、なかなかの美少女だった。それ故、祖父は母を殊のほか可愛がり、何処に行くにも娘を連れていったそうです。その娘の頃の母の写真が今、母の遺影の横に飾られている。仮にいま僕が町を歩いていて、その娘とすれ違ったなら思わずハット心惹かれるような写真だ思ふ。
 
 この町ではいまも大概の人は浄土真宗の教えに帰依しているが、それは内容を深く吟味することなく、唯、ご先祖様からずっと継承されてきたものだからだと云う至極単純な理由によるものが大きい。斯く言う、僕も若き頃より祖父と同じく幾つかの門を潜り、遍歴した者でした。当然親鸞の教えも深く傾聴し、関連の書籍などを読みまくったものでした。しかし葬式仏教に堕してしまっている今の浄土真宗には常に懐疑的であった自分がいた。本来ならば祖師の教えに回帰すべくあの教団の中から若き僧達の決起があって然るべきなのだがそれもなかった。仮にあの教団の中に親鸞そのものが現れたとしても恐らくは教団はその人を破戒僧として封殺し葬りさるに違いない。大衆の信の救済を主目的にして導く必要あるものが、いつしか教団の維持、拡張にのみ血道をあげ奔走している。この腐敗堕落した現状を親鸞が天界よりみるならば、詰まらぬものを作ってしまったと慚愧の思いで嘆かれるに違いない。いかなる組織も大きくなればなるほど内部から自然と腐臭を発し腐敗してゆくものだ。 

 与謝野晶子の歌 一首が頭をよぎる。「治承寿永の御国母、九十にして経読ます寺」
日本で九十才を過ぎて未知日記の書を読むのはおそらく松尾さんについで母は二番目だったろうな。いつもその書を押し戴いて読んでおりました。本当に有り難いことでした。是を書いている時、仏間から妻の読誦する声が聞こえる。彼女は母の遺影に向かい、一心に未知日記の書を読み上げている。それが彼女の日課でもあり、また至福法悦の時でもあるのでしょう。当初はこんな難しい本など私には読めないとひどく難渋して居りましたが、いまではいつしか心の大きな支えとなり、それを今生での自分の果たすべき使命と迄考えるようになったようです。斯く云う僕も全くの無学無才の者ですが、この書は信もて神を呼びまつる念さえあれば読めるものです。残念なことに却って僅少の学問を持っている人程、この書を忌避するのかもしれません。それは自分が持っている狭隘な学問的常識を遙かに凌駕する程の智識、智慧、哲学を此の書が内包しているからにほかなりません。学校で教鞭をとる古文の教師が此の書を途中で放擲したとしても、「一文不知の尼入道」である妻は楽々と読むことができるのです。寛大はこの文章の所々に、読む者の心を明らかにせんがための法力を用いられて居られます。よって文字の改変は勿論の事、てにをはすら一言一句も変更してはならじと言明されている。
 僕はいままでにこの大霊界の書を一六回読んで今回で一七回目の挑戦になりますが、不思議なことに飽きがこないのです。では読むことによって少しはお前は法力なるものが身に付いたかと、問われたら恥ずかしい話全然そのようなものはございません。唯、単なるそこらの市井に居る好々爺そのものです。でも此の書を読むことによって厳戒の辞の大事さをより深く知り、それを行じて、一人でもより多くの人にそのことを伝えるべく、奮励の気が日毎に漲る思いでおります。
教主は斯くの如く仰せになって居られる。



 世の中に種々様々の宗教あれど、こだま会程大なる力もて育てられ居る会は類稀なるべし。其は余りに他の宗教とかけはなれたる組織なるが故に、会員は是を軽く見る傾向あるは、実にあさはかなるもの共なりと云ふの他なからん。平凡なる如く見えて、他の宗教より百倍千倍もすぐれたる指導を受け居る会員こそ、実に幸福者なりと云ふとも敢て誇大の言にあらず。金品財宝を徴収して会堂を広くし、世間の眼を惹く如き組織ならば、却って信仰者は踵を接して集ひ来らん。然して利する者は誰ぞと考ふれば、実におろかしき事ならずや。慈音にして一般宗教者の如き振舞をなすならば、泰岳も円海も席を蹴りて立ちかへるならん。泰岳円海は百万の集会者より、正しき一人の信者にて可なりと思ひ居るが故に、慈音をはなれざるなり。
 されど無言詞の力は耳に聞えず、眼にも見えざるが故に、修養の尺度は如何なる程度迄伸び居るやすら知らざるべし。泰岳円海は是をよく知る。会員には是を知らざれど現今の会員はその力日増しに加はりつつある事は事実なり。唯彼等は何事かに対して一種の奇跡を求め居るが為、解することを得ざるのみ。僅少の奇跡などは取るに足らず。斯るものを求めんとなす間は、迷ひのみ深くして信ずることあたはざるが故なり。題目に掲げたる如く疑ふ心は信仰に入るの門なるが故なり。されば会員諸子は唯何事も考へず、泰岳円海の力を信じて拝みをなし居らば其にて望は達せらるるなり。斯る簡単なる宗教は何処にかある。平凡なる教への如く見えて、決してあやまたしむることなく導かれ居ることに感謝なし居らば其にて可なり。唯々拝む心を養ひて、一心に迷はず、泰岳円海の足あとを慕ひて、背後より歩み居らば其にてよし。急ぎて他の事に惑はさるる勿れ。急がば廻れと云ふ比喩もあるなり。急ぎて近道をなし居らば、却って他の道に迷ひ入るの他なかるべし。泰岳円海を見失はぬやぅ用心肝要なり。是はこだま会の会員に教ゆると同時に、此書を読む者にも此心がけにて読み居らば可ならん。





未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                         NO212
大霊界入門記   前編                 
気光素と光気素について                                                                   その7
                      教主寛大講述


 気圧の関係によって汝等の肉体に及ぼす影響は、学理にては未だ研究し尽くしたりとは云ひ難し。病めるものは気圧の関係を直接に感ずるによって、天候の如何をも知ることを得るなり。健康者には是を予知するもの少なし。是等の関係を唯外部の方向にのみ任せて、人類とは全く関係なきが如く放棄なし居ることは、医学上最も慎むべきことにて、我等に言はしむれば医学は是等の点に留意して充分研究すること肝要なりと思ふなり。又事実然せざれば病者は救はれざるなり。たとえば今日の如く医学が広く用いられて衛生々々と喧(かまびす)しく叫ばれ居るに不拘、流行性何々病とか云へるものが猖獗(しょうけつ)をきはめ居るは、是何に依るかを研究せざるべからず。唯黴菌作用とか称し居れど、その撲滅法に対して未だ明らかならざるは、是学者の研究の方法が誤ち居るによってなりと云ふも過言にはあらざるなり。仮に日本の如き狭隘なる国土に於て年々何百万と云ふ人類が増加し居らば、餓死者の多く出づることは云ふ迄もなからん。是を飢えしめざらんが為には、種々様々の方法を構ずるのあまり或は争ひ、或は盗みするが如き罪を犯すに至るは是非もなきことなるべし。されば産児制限とか称して人類を減小せしめんと計る如きは、当を得たる方法とは云ひ難からん。さりとて狭隘なる処に人類を繁殖せしむることも亦適当なる法にもあらず。されば国土を広くせんがために他の国土を侵害する方法も択ばざるべからず。果して是等は正しき方策なるや。是を我等に云はしむればすべては逆法なりと云ふの他なきなり。汝等諸子は大自然の法則を知らざるが故なり。

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