未知日記寓話集  第百十六回  未来観  その1  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO55                                       未来観          その1                                                                        教主寛大 講述

 今迄と云ふ言葉は過去を意味し、今とは現在を意味す。されば未来とは今よりと云ふ言葉にて尽きるならん。背に負ひたる子は過去に属し、抱きたる子は未来に属す。然して中心となる我は現在の関係とも見て差支なからん。前面に現はれ来るものを未来観とせば、背後は既に過去と変じたる関係上、背後は既に終りを告げたり。されば今よりは前面に現はるるものにのみ眼を向けざれば、未来観は明らかならざるべし。未来を知るには過去の何なりしかを考慮して、其を基礎とて計るにあらざれば、未来を予知することは難からん。ここに重要なる意味の含まれある事に心せざるべからず。先輩者の言葉は既に過去の経路を辿りたる体験なるにより、此者等に従ひて教へを受くるは、未来を知り得る手引きとして必要なる手本なるべし。汝等衆人より一歩ぬきんで居る我等なるに依って、諸子の知らざるところを教へんとするなり。我の教へは諸子に取りては未来に属すれど、我等にとりては既に過去となり居ることなり。我等は汝等衆人の悉くがふみ来り居る道は、既にその全土を尽くしたるが故に誤謬を犯さしむるものにあらず。此道を歩まば此所に至り、彼の道を歩まばかの地に達すと云へる如く、すべてを知り尽しあるによって、唯その事柄を語り聞かすのみなれば、我等の言葉に従ひて汝等衆人己の欲する方向に足を向けなば可ならん。其は衆人の心任せなり。地獄に行き度きものは地獄の道を歩むべし。極楽に行きたきものは極楽への道を進むべし。我等は強いてこの道を選びて進めよと強ゆるものにあらず。地獄に行くも永久不変なり。極楽又然り。
 山川草木あるによって道は知らるるなり。もし是等の備はりなくして大砂漠大海原に歩を進め、船をはしらすならば道を求むること難からん。理は一にして二にあらず。運命開拓と云ふ言葉は未来語なるべし。道を歩みて金品を拾ひその金品にて商売をなして福徳を得る如き人もあるならん。是等の人と雖も決して偶然より現はれしことにあらず。皆根拠ありての事なり。その根拠と云ふは即ち過去の行ひによる事は云ふ迄もなし。過去の悪行は未来に於て実を結ぶ如く、運命の開拓も過去を知るならば、未来に於て結ぶ実は如何なるかを予知すること難きにはあらざるなり。貧者の子が年長けて大富者となり、富者の子が末路に於て貧者となりて終る例も、これみな過去の種子が結びたる実に他ならず。
 汝等衆人は一つの事業を起し其が意の如くならざる時、中途にて断念するが故に成功せざる事多からん。されどあやまちなき行ひを以て企業に対して、倦まずたゆまず如何なる困苦にも耐え忍びて励み居らば、何日かは希望の如き実を結ぶは当然なり。汝等衆人の行ひは些細の事にも堪え忍ぶ力なく、少しく行ひては次より次へと望を変更て進むが故に、すべてはみな不成功に終るなり。一旦かくと思ひ定めたる事は如何なる事に対しても、堪え忍びて幾回かの失敗を重ぬる事によって成功は得らるるなり。これを運命開拓と云ふ。一回の失敗は建設の為の経験なる事に心して幾回かの失敗に対して、却って奮起する力を養ひおかば目的成就は得らるるものにて、失敗あればこそ大成功は得らるるなり。失敗なくして順序よく成功したるものには、永久的の福徳は得られじ。されば汝等衆人物事の順調に運ばれ行くものと、失敗を重ぬるものとの運命の相違は如何との質問もあるならん。失敗するは道を誤つが故なり。順調に運ばれ行くは誤またざる道を正しく踏むによって成功す。是等両者共に運命の如何に不拘、自然に順ずると順ぜざるとの相違あるのみ。何等不審するには足らざるなり。

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