未知日記寓話集  第百十五回 動の感じ、動の感じについて 教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO54                                 静の感じ動の感じについて       その9                                                         教主寛大 講述

  今も慈音が慈声に語りたる如く一枚の紙に一線を引きても、其は響きなりと語り居れり。然り。然あるなり。響きあるが故に、一線は眼に映るなり。一枚の紙も響きなり。故に手に触らば感じ来らん。是等の事柄を深く追究して思惟し見よ。無の感じ有の感じすべては響きより来る現象なるべし。この理をよくよく認識せざれば無言詞を知ること難し。
 諸子の考ふる響と我等が語る響とには相違あり。諸子の考へにては動に対して響と思ひ、静に対して響なしと考ふるならん。我等の語る処は然にはあらず。動静共に響となるなり。故に一個の電子一個の原子一個の気子もみな響に帰せしむることを得るなり。されば動静は形にして、その動静の力は生となる。生なるが故に根底に立ち返へれば死と云ふものはたえてなし。人間の肉体が増減変化して最後に分解され、個々別々に分離され、細胞が本分に立ち返へれば、更に又新しき力を生ず。故に根底に立ち返へれば生となるによって、死と云ふものはあらずして、生より生への持続となる。肉体に組織せられ居るも、引力によって集合なしたる結果の現はれに他ならず。是等の現象を思惟せば根底よりの死と云ふものはあらざるなり。生より生への持続するは絶対なるが故なり。是等は響きによって力を現はし居ると知らば可ならん。引力によって集合し、圧力によって分散す。されど是等悉くの道理は所謂響なるが故なり。我等が語る響とはこの理を云ふと知るべし。文意は拙くして諸子は解釈に苦むならん。されどこの拙き文意に潜在なし居る無の、なにものかを取り入れて考察せよ。然る時は無言詞のはたらくが故に、新しき感じを覚え来らん。恰も手に持てる一本の筆の如く、是より何を現はさんとするや。其筆は知らざるべし。然るに我等の語る言葉を聞きて直ちに紙上に其を現はす。是等も響より生ずると同じ道理とならん。是即ち鉛筆の静が響を有し居るによって、動に化せしむれば何ものかを現出し、然して其が働きの力と化す。故に動静悉くが響に帰する道理あるなり。
 昨日までの貧者が今日は富者となり、今迄語り居りし友が目前にて息たゆる如きを見て、諸子は唯運命の悪戯とのみ考ふるならん。されど是等は運命にもあらず。恰も一本の鉛筆が紙面に文字を現はすに等し。所謂諸子の考ふる運命は筆と同様にして筆は何も知らざる如く、諸子も何の認識(わきまえ)なきが故に唯偶然の悪戯と思ふの他なきなり。されば動の響を知る如く、静の響きをも知ることを得ば、己の運命の如何に運ばれゆくかを推知することの難きにはあらざるなり。

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