未知日記寓話集  第百十四回 動の感じ、動の感じについて 教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO53                                 静の感じ動の感じについて       その8                                                         教主寛大 講述

 乱るる心を統一すとも其は唯一時のわざにて唯苦痛を感ずるのみなり。川の流れを見よ。淵あり瀬ある如く見ゆるのみにて見方によっては淵も動なり。瀬も静なるべし。動静是一なり。其は唯感じ方の如何によるのみ。感ずると云ふも響きなりと語りし理論より思惟し見よ。この説を聞き汝等衆人宗教くさしと考ふるや。もし此説を宗教くさしと考ふるならば其は大なる誤解なり。汝等衆人の肉体は霊の中に包含せられたる一個の有機物に他ならず。一個の有機物なるが故に、霊の摩擦によって発熱発火なし居ると見なして、ここに一段の工夫なかるべからず。諸子の肉体は点火なしたる燈燭の如し。燈燭は八方十方照す光明なるが故に、目的とするところはその燈燭よつて八方十方を明らかにせんとする目的のために、点火せられたるものなるに不拘、その目的を果さんとせず、燈燭のみ心ひかれてその任務を暗くして意の如くはたらきをなさしめざるが故に、周囲を暗くなし居るに他ならず。故に汝等諸子はその燈燭にのみ心奪はれて、魂と云へば燈燭の如しと思ひあやまりて、魂を小さく考へ居るなり。我先に掲げをきたる魂の比喩は是あるによって、此事を語らんとして特に語りをきたるなり。魂を人魂の光の如く小さく考ふるは、即ち燈燭を連想するによってなるべし。魂とは八方十方を照らす力を指すなり。燈燭はその摩擦によって現はれたる現象にすぎず。科学上より説明するならば是等に関して種々様々の理論もあらん。されど是等の原理を煎じつむれば、摩擦によって現はれたるにすぎずと云ふとも、敢へて根拠なき理論とはならざるべし。即ち発熱発火の現はれが魂の根にすぎざるなり。この摩擦力が減退すれば従って燈火は消滅することもあらん。されど又も是に点火せば光は八方十方を照らす力となりて現はる。魂の明滅は時によりてはなさるることもあらん。其は力の強弱が摩擦によって生ずる現象より来る現はれにすぎず。発熱発火の摩擦力強ければ、光も増大し反対に弱くなれば、その力が乏しくなるは当然なり。汝等衆人この理を究めよ。魂とは即ち光明の力なりと思ふも可ならん。光明なるが故に八方十方を照らす。点火はその時々の有様に従ひて或は強く或は弱はく自由なるべし。故に汝等衆人は魂を点火の如く小さきものと考ふること勿れ。汝等個人の魂の根原は、恰も電燈の開閉器の如しと思はば可ならん。人によりては魂の力が燭光の弱きも亦強きもあるならん。故に魂とは一様ならず。小さき魂も修養修行の力によって増大する事もあり、又減小する事のあるも皆この理に基く。されど光明と云ふに変化なき事は云ふ迄もなし。一燭の光には一燭の光明あり。何万燭光の力にはまたその度も従って多からん。されど光と云ふに変りなし。稔りたる魂と、稔らざる魂の区別は是等によって判別するなり。魂を稔らするとは、光の度を増大するにありと思ふも差支なからん。
電燈の開閉器を閉れば是は静の感じとなり、開けば動の感じとなる。感じと云ふはひびきなるが故に、一方的のものにあらず。静動交々至るとの説は是によりても察することを得ん。

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