未知日記寓話集  第百十三回  動の感じ静の感じ  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO52                                 静の感じ動の感じについて       その7                                                         教主寛大 講述

 汝等諸子の世界の如く地震あり、水害あり、風害あり、落雷あり、火災ある危険なる場所に於て、如何なる危難に遭遇すとも堪へ得らるる家を建設するにあらざれば、安らかに住する事の得ざるは当然なり。既に九流界の人種ともならばすべての災害は免がるることを得て、安住なしつつある事は屡々述べたり。かかる事は唯地上に建設したる家に過ぎず。我等の言はんとする所は汝等諸子の肉体と云ふ家にあるなり。汝等諸子の肉体は如何なる災害に対しても微動だにせざる程度迄進み居るや。然りと答ふるもの一人としてあらざるならん。汝等諸子の肉体は危ふし。一分一秒の後すら知ることを得ざる諸子にして、如何でか安かるべき道理あらんや。此事を考へなば早くめざめて安全なる所を求むるにあらざれば極楽は希まれざるべし。基礎の肉体には種々様々の障碍ありて、何時如何なる危難に遭遇せんも計り難し。されば完全なる家を建設しをきて、基礎の肉体が如何に変化すとも直ちに、其家を安全なる場所に建設なし得る組織に組みたてをかば、さわぐことなく又動ずることもあらざるべし。
 肉体には動静の感じの区別明らかに知ることを得れど、精神的の動静感の区別は、容易に判明すること難からん。何となれば肉体の動静は動作によって判明すれど、精神の動静は動作によって定むること難き故なり。
 肉体は休養することを得れど、精神は休養の隙なかるべし。肉体に比して精神の働きはかくも動じ居るが故に、静の感じ、動の感じの区別を、容易に定むることを得ざるなり。斯る隙なき精神なるが故に、無言詞の真を把握することを得ざるなり。さればこそ宗教者は種々様々の説を説きて、精神統一とか或は三昧境とかの法を伝へ居れど、是を悟りて行ふもの百中の一もあらざるなり。他力宗教は是を悟りて如何に法を説くとも及ばざる事を知るによって、念仏をなさしめて、其によって心の乱れを改めしめんと計り居れど、其れすらおよばざるなり。是等は自然の法則なるが故、如何に曲げんとなすとも目的を達する事の難きを、見るに徴しても明らかならん。大自然の理は曲げんとして曲げらるるものにあらず。是自然を曲解なし居るが故なり。自然に順応せば労せずして、目的を達することを得るは理なるにも不拘、汝等諸子は自然を知らざるが故に迷ひは深刻となる。
 先にも語りし如く無始終界は動静によって分秒の休養もあらざるが故に、その流れをくむ精神状態もこれに順じて休養はあらざるなり。是、所謂大自然の原理なり。池の水は静なる如く見ゆれど、静にはあらざるなり。海の水は動じ居る如く見ゆれど、是又動にはあらざるなり。汝等衆人この理を知るや。動と思ふことも静に帰し、静と思ふことも動に帰す。大自然の理は先づかくの如し。よくよく研究工夫せよ。

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