父祖の足跡24 戦後の闇市

 父は五年間の兵役を無事終えて我家に帰還した。除隊した時は陸軍伍長の位で南方で大型トラックを運転し、多くの兵隊さんとか武器、食糧などの搬送を仕事としていた。ある時、米軍の戦闘機に突如攻撃され、助手席に座っていた部下が血まみれになり亡くなったことを涙声で父は僕達に話した。車の前面の窓ガラスは粉々に壊れ、危うく父は九死に一生を得ることができたわけだ。その他いろいろな軍隊生活の事を僕等によく話した。入隊した時、筆記試験などがあつて、父の成績は思いのほか良かったことから軍のお偉方が我家に来訪し、本格的な職業軍人の道に進むよう提案されたことがあったそうだ。しかし祖父の元吉はそれを頑なに固辞した。それ故先に生まれた長男はともかく、僕達三兄弟もどうにかこの世に生を授かることが出来た。父が仮にあの戦闘で死んでいたなら僕たち兄弟はそれぞれ違う母胎に宿され、それぞれ異なった人生を歩むことになったわけだ。
 戦後は食料確保のため、父と母は新潟方面、或いは和歌山あたりまで買い出しに行ったそうだ。途中車内で幾度も検閲があり、仕入れた食料などはすべて没収されたことも面白おかしく僕達に話した。戦後祖父母たちが貯めていた銀行預金なども預金封鎖されてすべてなくなったことも話した。いわば両親達は無一物からの出発だつたわけだ。戦後、夫婦は細々と商売を始めた。父は小さなパチンコ店を経営し、母はその店の隣で洋品や靴などを販売して僕等四人兄弟の口を糊した。場所は後町の中華そば屋の隣だった。その店は暫くして他の人に譲り、父は本町商店街に出店した。後年、父はかって僕達が住んでいた店へ連れて行き、そこでその店の女主人を交えて酒を飲んだ。その店は華やいだ格好の女給達が幾人もいて軽音楽やジャズが流れていた。父は女主人と話して、奥の部屋を子供に見せてやってくれないかと交渉した。主人の快諾を得て中に入らせてもらった。戸板一枚で仕切られている、向こうの舞台裏はかっての僕達の住まいがそのまま手つかずで残されていた。とても狭い空間だった。嗚呼、こんな手狭い所で祖父母、父母、そして僕達四人の兄弟が住んでいたのか、それはとても懐かしく不思議な感慨をもったものだつた。ついで二階にも上がり中を見た。そこは僕達子供が寝起きしていた部屋だった。見覚えのある天井の桟、小さな窓、薄汚れた壁、落書きの跡。少しも変わっていなかった。まるでタイムスリッブしたかのようだった。現在その家は何年も前に取り壊されて今は新しくなっている。その家の隣にあったそば屋さんも現在は福井市で営業をなされている。僕の息子が僕達をその店に今年連れて行った。そこで僕は迷わずかってよく食べていた中華そばを頼んだ。僕にはそれは懐かしい味だった。よく宇野重吉さんが宣伝していた店だった。あれから五十年もの時間が経ち、店頭には見知った人たちは当然なく、若い店員たちが切り盛りしていた。

×

非ログインユーザーとして返信する