父祖の足跡23  父の事、そして祖母の葬儀のこと

 父は商業を営む傍ら山林を買いまくった。全部で三町歩程あった。坪数になおすとおよそ一万坪にもなる。山の管理は山に住む林業を営む人に委託し、杉の苗木を植えてもらい、夏には蔓の伐採、春には雪で倒れた木々の木起こし、そして春には下草刈りや小枝の伐採、或は幹に巻き付く蔓の切断などで毎年それ相応の多額の金銭がかかった。僕は森林組合から沢山の荒縄を毎年調達し、それを山の管理人の家に軽四のトラックを借りて届けた。今それらの木々は植林してから六十年の成木になった。中には一部、百七十年生の山もある。大人三人が両手を広げてようやく届くほどに生育したものだ。当市でこれだけの年月を経た木はそう多くはない。
僕は父と一緒に山に入り木起こし機の機械を買って降り積もった雪で倒れている木を起こす作業を何年間に渉り幾日もやつた。木起こし機は数台は買った。大変な労力だった。二十年前、息子が家を建てるために、その中から五十年生の山の木々を切り出し、それを製材所に運び入れ乾燥させ、建築大工に任せた。息子曰く、「父さん、おじいちゃんの形見と思い、この山の木を使わしてもらったけど請求書を見たら市中で調達する木材価格とそんなに価格はかわらない」と。何年か前、新聞なんかで大根一本と五十年間も丹精込めた木材価格が同じであると報じられていた記事があった。これでは林業は廃れるばかりだ。父は生前、僕に言った。「儂は林業は完全に失敗した。林業に費やした金をもっと違う有効なところに賭けていれば」と悔やんでいた。
父は四〇年ばかり前、山の一画の木々を専門業者に委託伐採してもらい、その金でトヨタ車の新型コロナを買った。初めの半年間、家族を載せてあちこちとドライブに誘ってくれた。比叡山の延暦寺の根本中堂にも連れて行ってもらい壮大な伽藍建築を見せてもらったこともあった。帰りは京都に行き、本格的なレストランにも行った。初めてのレストランでの会食なので僕は緊張してスプ-ンを落とした。僕ばかりか弟も同様また落とした。すぐにボーイが駆け寄り新しいスプ-ンを持ってくる。僕達はお互いの顔を見合わせ苦笑した。その時はボーイはすぐ後ろに控えて立つていて緊張のあまり何を食べたか忘れてしまった程だ。父はその車で祖母のマサをも連れ、其処かしこ祖母の喜びそうなところを子供達と一緒に連れまわった。マサは寡黙な人でいつも家に閉じこもっていた人だった。しかし僕達四人兄弟は幼児の頃からすべて布団の上げ下ろしはもとより、朝食に至る迄すべてにおいて祖母にやっかいになった。祖母は八八歳まで生きた。長兄は祖母の葬儀を悲しみのあまり欠席し、ひとり河原に赴き、慟哭していた程だった。祖母のまさは餡子をつくり、練炭火鉢に焼きまんじゅうの型枠を置き、油をひき、そこにメリケン粉の液体を流し込む。型枠は栗、太鼓、桜、もみじの四枠があって、僕達子供は練炭火鉢を取り囲むように座って出来上がるのを待っていた。子供達は出来上がる前から、僕はさくら、また弟たちはそれぞれ「たいこ」、「さくら」と声を出し合いながら待っていた。今思えばあの時分頃が一番楽しかったな。
 祖母の死を契機にして、僕が死というものを真剣に考えるようになった。それからは色んな宗教書を乱読するようになった。唯円坊の作と云われる歎異抄をはじめ、親鸞聖人その人にも傾倒した。五井正久全集などを一心不乱に読んだ。あちこちの図書館からも借りて手あたり次第乱読した時期だった。ある時、父の妹が来て、この本を読んでみないかと渡されたのが未知日記全集の中の一冊である「大霊界の書」だった。同じ本を十八回も読んだ。それ程までにこの書は衝撃が強かったためだ。僕がブログを始めて世の中の人に知ってもらおうと思い、最初に転記したのはこの大霊界だった。今はひとり黙々とktmさんが読んでおられる。どうぞ何度も何度もこの書を紐解きお読みくださるように。

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