父祖の足跡21  また性懲りもなく犬を飼う羽目に


 あんな事故があってもう犬は飼うまいと思っていた。だが暫くして弟が「妻が妊娠した」医者の話に依れば感染のこともあり、動物は置かない方が良いと忠告されたので出産までどうか預かってくれないかとのこと。僕はしぶしぶ引き受けた。僕はその犬の名前を再びジョンと名付けた。弟は知人からその犬を貰い受けた時、柴犬だと云われていた。僕もそのつもりでいたら、体躯はどんどんと大きくなって行き、普通の柴の体躯をはるかに超えて雑種と判明した。朝の散歩のとき娘の保育園に連れて行く時はいつも堤防の桜並木を通り娘を保育園に届けた。また帰りもジョンを伴って娘を迎えに行った。喜んだのは娘とジョンだけだった。よくその頃はジョンは脱走して二日ほど帰って来なかったことが屡々あった。保健所からも連絡があり、宿泊代と食事代を幾度も請求された。ある時などは僕の家の前を尻尾をさげて行ったり来たりしていた。僕が捕まえに行くとすぐに逃げて行ったものだが、娘が鎖を持ってゆくとジョンは逃げずに楽々捕まえることが出来た。彼は娘に捕まえられたときは実は内心ホットしたのだろう、尻尾をくるっと巻き上げ意気揚々として、「皆さん、ごきげんよう」と云わんばかりに帰還した。またある晩遅く、ジョンは尿意を催したのか11時頃に泣き出す。暫く夜道を歩いていると、空中に橙色の風船玉のようなものがぽっかり浮かんでいた。僕は当初、人魂とは思わなかった。それは風に流され20メ-トル程行ったところでコンクリート塀にぶつかって消えた。その近くに明覚寺という寺があってそこでその日はお通夜が行われていて、少数の親族があっまってまだ会話をしていた。「葬式と人魂」それ以来、僕は人魂は見たことがない。僕の母は人魂を二回みたといつも言っていた。その話に依れば、近所の家の屋根に人魂がぶっかり、その翌日にはその家の青年が亡くなり、次の日は葬儀になったそうだ。

 弟は嫁が出産をしてもとうとうジヨンを迎えに来ることはなかった。そのかわり息子と娘に有形無形を問わず色々なことを伝えていった。今となればよい思い出をジョンは残してくれた。享年15歳であった。ジョンは息子の結婚式の三日前に死んだ。息子が結婚することを犬なりに感じ、自分がこの世で果たすべき天命、職責を総て果たして、彼なりに満足の内に亡くなったのかもしれない。僕は一人で自分の山に彼を背負い、スコップ、鍬などの備品を取りに往復二度山を上り下りした。そしてそこに穴を掘り、ジョンを丁寧に埋めた。僕がブログの写真に犬を多用するのはきっとこのジョンを偲んでいるからだろう思う。

ある日曜日の朝、妻と娘とジョンを連れて九頭竜川の橋を渡り、京福電車の線路沿いをぶらりぶらりと歩いた。およそ15キロ、やがて小舟戸の駅に辿りつく。もう娘が歩けないとそこで泣き出す。僕は自宅にいる父に近くの公衆電話から応援を頼んだ。その頃は父もまだ元気があって車で迎えに来てくれた。父は孫娘にようこんな遠いところ迄歩いたなと褒めていた。父もジョンを良くかわいがってくれていた。今の僕の体力では一キロも歩けばくたくたになってしまう。嗚呼、皆んなあの頃は若かった・・・・・・

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