宇宙からの訪問者 NO7  小説 父の信仰について その1

 爺ちゃんは臨終の際には少しの苦しみもなく、眠るが如く黄泉へと旅立っていった。母は小筆を使い、唇に水を浸したけれど、爺ちゃんは末期の水を少しも摂ろうとはしなかった。天寿を終焉(おえ)ようとするものは水を飲まない。水を求めるものは怪我で亡くなる者だけだと婆ちゃんは母に云った。葬式の日に、村の人達、親族の他に全く僕達の知らない夫婦の方が弔問に訪ねて来られた。婆ちゃんがその夫婦に名前を尋ねたところ、女の人が昔二十歳の頃、小舟戸の川で泳いでいた時に溺れてしまい、ここのお爺ちゃんに危うく命を助けられたことを訥々と物語った。その時、女の人は無我夢中、爺ちゃんにしがみついた為に、爺ちゃんはとっさに泳ぎながら、後方から私の首と髪を引っ張って岸に這い上がったそうだ。その方々はお婆ちゃんに、「叉、どこかでお会いしましょうね。どうぞいつまでもお達者で」といって、爺ちゃんの遺影の前で深々と頭を下げ、感謝の言葉を伝えて帰って行った。
 一方、葬儀の時、父は余りの悲しみの為、一人裏山に登り、会葬を欠席してしまった。多分山で大声で泣いていたのだろう。葬式の後、父は一週間近く食欲がなくご飯類を一切受け付けず、酒ばかり飲んでいた。全くの空酒だ。この時、人間悲しみに遭うと食欲がなくなることを僕は初めて知った。
 父に変化があったのはこの時からだった。人間死んだらどうなるのか。単に無に帰してしまうだけなのか。来世とは、地獄とは、極楽とは一体どうなつているのか、そんな疑問が渦巻いたそうだ。それからというもの、父はあちらの門、こちらの門と新興宗教の門を尋ね歩き、いろいろな宗教書を読み漁り、又僧侶などにも問いただした。例えば「成長の家」の書籍三十巻、立正佼成会、キリスト教の聖書なども真剣に読んだ。さらに白光会の五井正久の書籍も全巻取り寄せて読みまくった。そして村の人から勧められて×××××教に入信した。何日間の研修を受け、数万円を奉納して、胸に掛ける金属製のお守りをもらった。本によれば、其処の会の会長直々に書かれた光と云う文字が書かれているとのことだった。父はこの教えに疑義を抱き、そのお守りを金づちで壊し、中を確かめた。中には文字など一切なく、空っぽだった。その旨を父を誘った人に告げると、あんたはとんでもないことをする人やなあー、ええか、罰が当たらんようによう神さんにようお詫びせなあかんぞと、言い残して立ち去って行ったそうだ。


「誠に誠に汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん。若し死なば多くの実を結ぶべし」
上記の言葉はよく御存知の新約聖書のイエスの言葉だ。父は僕にその言葉の意味を次のように云っていた。
「親父の死は俺に信仰の種を植え込んで呉れた。それが今、双葉となり、若芽を持つに至った。親父の死を平静に眺めていたならば、おそらく信仰の一大事というものを考える契機とはならなかったに違いない。親の死によって此岸に残されるものに多くのものを与えてくれた。親父は俺にとって一粒の麦だったのだ。その意味で俺は親父に深く感謝している」と
又、父はこんなことも云っていた。
「信仰とは何かについて、俺流に感じていることをお前に話そう。そもそも俺達の魂は不滅界の末端より、不滅界の中心に帰らんとする無窮の長旅を行つているのだ。俺達は始めから人間として置かれたのではなく、ずっと何十億年前には小動物の時もあったのだろう。その小動物にとっては大変な小さな川、低い山の数々をなんとか乗り越えてきた。そして畜生という動物に生まれ変わる迄には大河も深山もすべからく乗り越えて、今、漸く人間という境涯に達することが出来たのだ。ここまで来る間、俺達は筆舌に尽せぬ幾多の艱難辛酸を乗り越えてきたんだ。今、人間として生を享けている人はすべて大冒険家なんだよ。お前も、俺も、婆ちゃんもそして母さんもな。

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