宇宙からの訪問者 NO6   小説   死んだ爺ちゃんの話

  婆ちゃんは僅かな年金と野菜を売ったお金、それら総てを母に差出し、一家の暮らしに役立たせている。婆ちゃんは自分の為にお金を使わない。たまには町に出て、自分の服でも買えばいいのに、いつも同じ野良着とモンペはいた生活をしている。でも、盆と正月、それと特別な日はタンスにしまってある着物を取り出し、身奇麗にしている。婆ちゃんと母は、毎朝一緒に仏壇に参り、正信偈とか仏説阿弥陀経というお経を読み上げるのを日課としている。それは八年前、病気で亡くなった爺ちゃんの供養をするためだ。爺ちゃんは一人で山仕事している最中に脳梗塞に見舞われ、誰も気づく人もおらず、何時間も山の中で倒れていた。雨が降り、暗くなっても帰って来ない爺ちゃんを心配して、父母と婆ちゃんは近所の人にも応援を頼み、各自が懐中電灯を持ち山中を声を枯らして探し続けた。爺ちゃんは山の中腹で泥だらけになってうつ伏せの状態で倒れていた。全員で山道まで抱きかかえ、救急車に乗せて市内の病院に運び入れた。もう誰も蘇生することはないと思っていたようだ。だが、病院のスタッフの懸命の治療のお陰でなんとか一命だけはとりとめることができた。しかし、爺ちゃんの下半身は全く動かず、その上、言葉も話せず、普通の食事さえも摂れなくなっていた。爺ちゃんは婆ちゃんに「もう生きていてもしょうがない。早く死にたい。死にたい・・・・・・」と幾度も繰り返し云ったそうな。深夜になると点滴の針を自分で抜き取り、朝になって気がつけば、ベッドは大量の血で汚されていたこともしばしばあったそうな。病院で半年間治療を行ったが、いっこうに回復の見込みはなく、金銭の都合もあり、自宅療養に切り替わった。それから我家で十四年間にも及ぶ寝たきりの介護生活が始まったのだ。
 一番大変だったのはお風呂に入れることだった。父がいれば、爺ちゃんを背負い一人で風呂場に運び、服を脱がせることが出来た。しかし、父がいない時は母と婆ちゃん、それに僕の三人掛かりで風呂に入れた。涼しい季節でも三人の顔から汗がしたたり落ちた。
爺ちゃんは家族に「いつも、いつもすまんな。ありがとうなあ」と繰り返し云っていた。爺ちゃんは僕たちに手を合わせ、眼に涙を浮かべていた。そして母には「ようこんな草深い所に嫁に来てくれたな。ほんとにすまんこっちゃ」といつも涙ながらに云っていた。
頭はしつかりしているのに、言語不明瞭で人からみれば、全く痴呆のお爺さんに見えるに違いない。爺ちゃんは自分の死を察知したのか、亡くなる十日程前からミミズが這うような字で遺言らしきものを書き残していた。勿論、赤貧洗うが如くの生活だったから残すべき遺産らしきものは何ひとつない。内容は自分の葬式は極々簡単にやってもらいたい事と十年余の介護に対しての家族への感謝の言葉が綴られていた。
亡くなる一日前、爺ちゃんは天井の一角をじいっと見つめ、「おっ母、おっ母」と爺ちゃんの母の名前を頻りに呼んでいた。ばあちゃんは云った。
「私らには見えなくとも、爺ちゃんの眼にはしっかりと自分の母親の姿が見えるんだよ。とうとうお迎えにこられたんだね」と‥・・・・・・


 爺ちゃんの死に顔はとても穏やかで、優しい顔になっていた。病気になるまでは筋肉質のがっしりした体躯だったけど、亡くなるころには肉は削げ落ち、体重は四十キロぐらいになっていた。葬式の際、親戚の人は「不憫な奴やったけど、よう皆に介護してもろうて、健作も幸せな晩年やったなあ~。また新しい肉体(からだ)もろうて頑張るんやぞう。いまは暫く休ませてもらえよなあ~」と云っていたのを僕は覚えている。爺ちゃんが死んだのは僕が七歳の時だった。人の死というものを生まれて初めて間近に見た。その衝撃のせいか、葬式の日の事は細かいことまで一部始終よく記憶している。
棺に納める前に葬儀屋から派遣された納棺師二人が丁寧に身体を拭き清めたこと、痛々しい床擦れの跡を見て、家族のものが嗚咽したこと、父が孝行の足りなかったことを悔やみ、号泣していたこと、通夜の時は一昼夜、寝ずの番をして爺ちゃんの思い出話をしたこと、それに野辺送りの葬式の行列の光景などが今もしっかりと脳裏に刻まれている。

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