未知日記   絶対界   神霊界   ミキョウの泰岳のこと    テツシン貴尊講義   2021.03.09

未知日記   第十一巻    絶対界   テツシン貴尊講義
2021.03.10


 諸子は徒らに経路に囚はれて結果を考へず。その時々の有様に従ひて考へを新らしくするが故に、大自然の順路を歩むことを得ざるなり。されば大自然に順ぜんとならば、先づ己に架せられたる任務をよくよく弁へて、その後其道を正しく歩むならば、所謂大自然に順ずるが故に、結果に於て安全なる居に安んずることを得るなり。人となりて何になることぞの考へは迷ひなり。是等も大自然を知らざるが故なり。諸子は人としてこの世に現はれたるも、大自然の法に合ひたればこそ、人として現はされたる喜びを起さざるべからず。人として何になることぞにて終らば其にてすべては結末となる。然して結末となりては永久安からざるべし。人となり神とならんとするも、永久安楽にして絶対の居にをさまらんととの思ひを貯ふれば、人となりて安んじ、神となりて安んずることに努力せざるべからず。諸子の考ふる如く極楽世界に至りて安き日を送らば、倦怠を感じて無味乾燥の生活となる。かかる事は望ましからず。却て地獄の変化は興味あらんなど考ふる如きは、小自然の考へにてかかる事ならば、敢て天国に至るの要もなからん。それこそ神になりて何になることぞの明らめとならん。恐るべきことにてはあらざるか。
 故に物事を考ふるならば永久不変の道を歩まざるべからず。終末極致にて尽きるならばそは死したるにて生を持続することは難し。故に諸子は死せざる底の修行をなしをかずば、永久の生はのぞまれざるべし。死すること勿れ。永久生きよと奨むるものなり。否、永久死せざるが故によくよく学し工夫せよと奨るものなり。死するは迷ひにして生きるは信なり。故に生死の考へは迷ひにして、たとひ諸子は死をのぞむとも亦死を厭ふとも、生きるものは必ず生き、決して死するものにあらざることを、我等よく知るが故に、斯る考へを早く捨てよと注意するものなり。
 諸子は肉眼に映ずるものをありと思ひ、映らざるものはなしと思ふが故に、生死の迷ひ生死の悩みはあるならん。故に注意なしたるなり。ありと思ふもなしとなしと思ふも、肉眼の相違にすぎず。大空に浮べる星の数々は、距離の上より考察すれば非常に遠し。されど眼を上げれば忽ち映じ来る。然るに一室隔てし襖の蔭にあるものは、眼に映らざるべし。肉眼はかくも不自由なり。隔りあるものは分離されたる如く感じられ、我とつながりあるものを不可分のものと思ふが故に、肉親の兄弟と他人との区別をなして交はりをなすは、是又一般世間の人情ならん。全宇宙は絶対なるが故に、万物はすべては一体なり。故に絶対自然の法則より考ふればすべては一体なり。故に絶対自然の法則より考ふればすべては、一つにして自他の区別はあらざるなり。例へば肉眼を以て見る時は、太陽と地球は隔りあるに依て別個のものの如く見ゆれども、神眼より見る時は然らざるべし。相寄り相助けて共に生活なし居るならん。月星又然あるなり。然りとせばすべては一体なるべし。不可分のものにはあらざるならん。肉眼より見る時は相対となり、神眼に見る時は絶対となる。この関係より肉眼と心眼心眼と魂眼魂眼と霊眼の順序に応じて仔細に思ひを深くし見よ。耳又同様にして声なき声を聞く力は、肉耳にては到底及びもよらぬ声が、魂耳霊耳には大なる響きを感ぜしむるに至らん。姿なき姿を見る眼は、肉眼にたよりては如何に専心万苦すとも限度ある眼には、無限のものを見ること難きは当然なり。されば魂眼霊眼を開らかざるべからず。はたして然るものは人間に有するやに、心して見る時、果してかかる事のあり得るやに迷ふならん。分によって定まると語り居るは此意味にして他にはあらざるなり。   

×

非ログインユーザーとして返信する