未知日記   絶対界   神霊界   天眼地眼通のこと    テツシン貴尊講義   2021.03.02

未知日記   第十一巻   絶対界   第三章   絶対の性質   テツシン貴尊講義
2021.03.02


  諸子の考んがふる絶対とは、自にも属せず他にも属せざる底のものを、絶対と誤認し居る事を我等は知る。その考へはあやまちなり。自にも属せず、他にも属せず、善にも組みせず、悪にも組せざる如き頑固なるものを、絶対と考ふるならばそは誤ちなり。自他一如善悪一如と云ふは斯る底のものにあらず。例へば右にも曲らず左にも曲らざる底の頑固なるものならば、そは折るるの他なかるべし。斯る不自由なるものを絶対と見なすならば、絶対程不自由なるもの他になかるべし。此事柄より広く万般に渉って推考する時、絶対自然とは不自由この上もなきものとならん。絶対自然は自他善悪に不拘、すべてに通ずるが故に絶対と云ふなり。自ならんとすれば自となり、他ならんとすれば他となり、又善ならんとせば善に組し、ア組ならんとせば悪に組す。故に絶対と云ふなり。諸子は是を誤認して絶対とは自他善悪を問はず、一体化なし居るが故に、何れにも組せずと考ふるが故に、真の自然に順ずることを得ざるなり。是即ち神の造りたる法則にして、法力はこの絶対より生れたるものなれば、善に用いんとせば悪となる。是、絶対別れて相対となるの理なるによってなり。先にも語りし如く霊は絶対なるが故に、善人には善に化し、悪人には悪に化と語りしは、この理によってなり。故に自由とは霊を云ふにて、絶対自然の性質はかくの如き姿なれば、悪魔は是を悪用し、仏は是を善用して共に目的を達成なし居るなり。所謂神の造りし大自然の法則を順用すると、逆用するとの相違に他ならず。されど順用するは進歩意味し、逆用するは退歩を意味す。故に順用するものと逆用するものとは、相互分離されてここにはじめて相対関係と化せられることの理は察せられるならん。仏教者の云ふ明中に暗あり、暗中に明ありと云ふ言葉も、即ち絶対別れて相対と云ふ意味に合ふ。諸子の世界に於て用いられ居る法律等も、すべてこの理に基いて択びたるものなれば、その法力によって大衆は安んずることを得るに不拘、絶対性原理に合はざる約束を結ぶによって混乱は免れざるなり。現今諸子の世界は甘苦の方策を構じて一方は甘を以て治めんとし、一方は苦を以て屈服せしめんとの策略にすぎず。故に何れに組すとも最後は甘に従ふか、苦に屈服するかの他なかるべし。然る時はその結果は如何を考慮し見よ。一見すれば判明するならん。斯る事にて世は安楽とはならざるべし。何れに組するも一方的となり、絶対にはあらざるが故なり。
 我、テツシン緒論に於て語りし如く大海の魚をとるに一本の針をもってするもあり。網を拡げて捕獲するもあり、好める餌を投じて捕獲せんと計るもありと語りしは是なり。絶対大自然の法則に従ひて真の自由を得せしめんとならば、斯る方策にては安からぬ生活を持続するは当然なるべし。諸子は好める餌にひかされて一網打尽に捕獲せられんとするや。又相争ひて網の目より逃れんとして、却て網にかかりて命をおとす如き愚を敢てするや。大海にありて自由自在にあそび、天より与へられたるものを食みて、安らかなる生活をなさんとするや。わづか一本の針につけたる餌にひかされて命を失する如き、卑しき行為をも敢てなすや。ここに意を払ふべし。大海は広し。天は汝に飢餓をあたへ給ふものにあらず。又空しき生命を奪ふものにもあらず。大自然に順じなば安らかに生を得せしめ給ふならん。自己のみが慾望を貯へて一本の針にかかる如きは愚も亦甚だし。利己主義とは即ち一本の針にかかる魚の如し。他は語るもよしなし。考ふれば誰にもうなずかるることならん。諸子よ。空しき魚族となる勿れ。絶対自然は諸子に自由をあたへ居るに不拘、相対自然の法力にひかされて危ぎ生活に陥ること勿れ。       

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