未知日記  第五巻   感応論   天変地異を感ずる理由   テツシン貴尊講義



未知日記  第五巻   感応論   天変地異を感ずる理由    テツシン貴尊講義2021.02.11


  天変地異を感ずるやについて、汝等は唯迷信より誤認なし居る事多きにすぎたり。もとより神より受けし人体組織には、其力を有するは理なれども、感ずべき理なきものをも感ずる如く誤認し居れる故に、我、是に対して明確にその理を得させんと思ふなり。虫の中にも天候をよく知るあり。人間は却て虫より教へられ居る事多し。
 例へば魚類の集れるを見ては地震あらんと思ひ、虫の斯く々々するは雨、或は風ならんと思ふは虫魚に教へを受け居るなり。虫魚にして斯る力を神より受け居れり。まして人間に至ってその具備なかるべけんや。弱はき動物には保護色を与へられて身を守らせあるにてはあらざるか。然るに人間は神より受けし本能をわきまへず、却て他を求め居れる故に、本能より遠ざかり行きて、果は失墜したるなり。されば本能に立ち返へらば必ずや感応あるは虫魚動物の比にはあらざるなり。人の中には雷鳴を厭ふ人は三四日前に確知すると云ふ聞く。又芸術の妙を究めたる人は、その道に依って種々様々の事柄を感知すと云ふ例も少なからずあるを見るに徴しても、人間本能にはその素質を与へられあるを知る事を得ん。
 兎角我情我心に囚はれ本能組織を失ひ居れるは事実なる事と心附くべし。紛失したる本能を求めんと思はば別段新らしき方法、或はむつかしき方法、或はむづかしき方法にに苦む必要を要せず。唯己が天より授かりし使命に従ひてその分野を忠実に行ひ守れば、必らず遺失物は求め得られる事を我は立証す。其理由は先に述べし如く、芸術家は芸術に切磋琢磨して妙技を得ば本能に返ると同様なり。「名人は上手の坂をひと上り」とか、上手の間は魂魄の智慧に囚はれあれど、名人となれば霊智に帰したるに依てなり。話は枝葉に入りし感あり。もとに返らん。
 天変地異は肉体の病気と同様にして、地球にも様々の病あるなり。豊年にして稔り多き年、不作の年、水害風害旱魃等々、或は津波地震落雷など数ふれば、枚挙にいとまあらざるなり。もし是等を未然に確実に知るを得ば、是に対するまぬがれる道も開拓することを得べし。即ち是を悟り得る理由は、霊は天地に和するを以て是を知りて魂魄に報じ、魂魄は是を心意に伝へて明白ならしむ。一言に論ずれば斯くの如し。されど是を知るは容易の業にあらず。雑念を払ひて平なる平常心になり居らずば感応通達あるとも領収するを得ざるなり。
「相見ての後の心に比ぶれば、昔は物を思はざりけり」との道歌の如く、知りて初めて覚ゆ。汝等は余りに物を知りすぎて、却て横道に迷ひ本来の道に雑草を繁らせて不明となし居れるなり。汝等は花を見んとて山に杖をひく時、先に見たりし人々が山をあらして枝は手折られ、紙屑食品の空箱等散乱しあれば、清かるべき花の真を眼にするあたはずして、不快の気分は生ぜざるか。汝等心の養ひかたの誤れるも此例に等し。斯る有様にて天変地異を感ずるあたはざるは火を賭るよりも明白ならん。心を清浄になす箒は慈悲と相成り、汝等が日々排出する汚物も大地に依て清浄せらるれば立派に養素の役を果す。悪人と雖も愛すべし。悪を清浄して養素とならしむる慈悲にかへなば、心は常に整頓す。悪きは善に変へなば可なり。己自ら悪心起らば後と云はず直ちに浄むべし。汝等幼児達が床に糞尿をもらしなば、後と云はず何を措いても清除するならん。悪は糞尿と思ひて速かに清除せよ。是修養の極妙なりと考ふべし。斯くして塵を止めずば美なる花は一層の美観を呈せん。己の心が己の鬼にせめられつづあらば身に美服を纏ふも美ならず。美食も美味ならざるべし。心爽快ならば粗服も美はしく粗食も美味とならん。掃除を怠るによりて塵は積り、或は黴菌発生してなやますなり。執着拘泥は心の隅に掃き寄せられし塵の如し。早く焼き尽くすとも、又他に捨てざれば一層塵は深まるのみ。紅塵万丈は天日をくもらす。油断なす勿れとかへすがへすも警告す。

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