未知日記  第五巻   言葉なき感応その2   テツシン貴尊講義2021.02.0

未知日記   第五巻    感応論   言葉なき感応  
その2    テツシン貴尊講義


 例へば人の哀を見て己が心に感ずる思ひを研究なし見よ。飢えたるには食も与へん。おののかば衣も与へん。病むならば薬もほどこすならん。されど心の煩悶は何を施すべきか。汝等の悩むと云ふは肉体より出でたるにて、真の心の悩みなければ是に処する道、是に処する術は知らざるならん。汝等は真に心の憂ひを知らざるなり。我心の真ならざるに憂いず。肉体より来る憂いあるのみなれば、真に誠実ならざる心の哀に悩める人に同情なし得る思ひあるべき。思ひやりと云ふ言葉にも我等が語ると汝等が語るとには斯る相違あるに依て、感応の論旨にも汝等は肉体を主とし、我は魂魄を主とするに依て誤解を生ずるなり。汝等は醜き姿を厭ふに肉体を指し我は心を指す。汝等は肉体の醜きを恥づれど、心の醜きを恥ぢざるは何と云ふあさましき事ならずや。肉体の醜美は他目につくに依て厭ふならば、心の醜美は神の眼につく依て厭ふ筈なるに是をなさざるは、即ち肉体本位を離れざる事を知るならん。人と神とは何れが重きか。汝等は神なしと思ふか。神なしと思ふも可ならん。されど汝は汝の心を美なりと思ふや。美なりと思はば其にて汝の修養は成就したるなり。汝の心は汝を知りおればなり。汝等如何に智慧才能ありとも、汝自らを欺く事あたはざるべし。
 感応の大切なるはここに存す。言葉なくして何物かを感ぜしむるその感じの来る処、その現はるる理由を知らざれば感応の本旨を把握する事を得ざるのみならず、感応の一大事をわきまへ知る事を得ざるなり。汝等は心は肉体にある限り肉体を離るると云ふ事は行ひ得る事難し、又離れよと云ふは無理にして理にあらずと思ふならん。然り離れよと勧むる方は無理にして理にあらざるなり。然るに是を離れよと勧むるに対し、汝等は誤解しある事に我は気附きたれば、聊か是に関して考慮を促がさんと思ふなり。
汝等は誤解しある事に我は気附きたれば、聊か是に関して考慮を促がさんと思ふなり。
 心身は不可分なる事は誰も知る。是を肉体を離れよと云はば汝等は肉体と心を区々別々とせよと思ふならん。そは大なる誤解なり。心と肉体を個々別々とせば恰も家出せよと云ふに等し。我は汝等に家出を勧むるにあらず。我、行法に於て出家の説を論じたり。故に汝等は是に対しても我の意志と汝等の思ひとに誤差を生じ居るならん。故に少しく汝等の考へを改めしめん為に論旨を進むべし。
 我の出家論は汝等が心に汚れある衣服をまとひ居るを脱ぎて新らしき衣にかへよと云ふ意味を説きたるにて心の家を離れよと云ひしなり。即ち心の寺、心の道場を建てよと説きしなり。魂魄を何処に旅行さすとも宿あり借家ありと云ひしも肉体を云ふにあらず。気光の宿光の借家を指したるなり。誤解する勿れ。肉体の家を捨てたらば葬式せざるべからず。我等が説く、「肉体を離れよ」について、例へば栗は毬(いが)の裡にありて尚皮あり。渋ある如く、汝等にも毬の家、皮の肉体、心を包む渋あり。此渋を脱げよと云ふなり。然して心より真の肉体の寺の如く、道場の如き広大清浄ならしめよと語りしを汝等は真の肉体を捨て、心と分離せしむる如く考へて修行してならずと苦むは愚なる事なり。心の垢は心の家、心の衣なれば是を着換えるか、或は是を建てなほして広々としたる肉体の道場になし肉体の道場も共に清浄ならしむれば、汝の住み心地は如何ばかりか楽しかるべき。思ふだに爽快ならずや。所謂心の主人が肉体を清浄になすなるに。肉体より却て押し込められて肉体の家なければ斯る苦痛はあるまじきものをと、肉体の家を持ちかぬる等は愚の骨頂ならずや。呵々大笑すべきなり。さて本論にかへるべし。

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