未知日記  第五巻   感応術にて病苦は去るか.   テツシン貴尊講義2021.02.03

未知日記   第五巻   感応論    感応術にて病苦は去るか    テツシン貴尊講義2021.02.03


 感応術にて病気を治癒せしむる方法には種々あれども、帰する処の原理は一にして他にはあらざるなり。その一と云ふは気光素が共鳴するに依て、自力にて治癒せしむるにすぎずして、他より受くるは方便感応術にすぎず。その方便とは一種の波長にして所謂暗示音響とも云ふべきものなり。
 例へば神経衰弱症の治療をなすに、先づ我療法を行はば睡眠は充分とることを得るなりとの暗示を送りて、全身を鞍撫すれば血液は躍動して循環を旺盛ならしめ、神経は摩擦に依て麻痺するするため身心倦怠を感ずると同時に、暗示は気光素の共鳴に依て活躍を始め、ここに始めて深き眠りに入るなり。鞍撫は肉体の波長音響にして暗示は気光素に共鳴する音波、或は光波、或るは気波と云ふに共和共鳴より治癒を誘導なすなり。
 前にも語りたる十二気十二光の働きに基因するを以て、この気光素こそは病苦を掃ふ玉箒とも見らるると知るべし。然れども病状によっては治癒するとせざるあれば万病治癒すると考ふる勿れ。言葉は音波なれば耳より入れど、その意味なるものは気体なれば気に和して働くなり。例へば前にも述べたる未知の人よりの文は文字なれば光にして眼より、その文は言葉なるに依て眼よりの音となりて音波に組織され、その何処へ持参せよとの意味は気波となる故に光波音波気波の三つが心意魂魄に共鳴し、三波によって気光素が完全に働きて未知者の囚人となり、意のままに乗ぜられたるなり。
 今是を四線の法則にて検すれば心魂と意魄を破壊分解したれど融和を欠き居れり。然して組織は遂げられたる為忘却の止むなきに至りたり。催眠術には四線の法則のうち或一点を失はししめざれば成功はむづかしきなり。稀には整へる法もあるなり。是に反して感応より出でたる治療に於ては四線の法則を無視する時は治癒せざるのみか却て有害となるなり。神経衰弱症の例にある如く最初この療法を行ふことによって、「汝は深く眠るべし」と云ふを前後して暗示したるならば、そは却て被術者はめざめて眠ることを得ざるなり。何故かと云ふに、最初暗示を先にするは、病苦を破壊して摩擦によって分解を計り、その後は沈静して肉体と暗示が融和して深き眠りのの組織が構成せらるるなり。然も其が前後すれば最後は破壊となりて構成の妨げとなるを以て反射作用を誘発する結果となるなり。感応作用は斯くも微妙にして、一事が前後したる結果に於ても斯く相違あるによって深く意を用いざるべからず。この他名称を異にしたるもの数多けれども、大概大同小異にして中には漸次見るべきもの少なからず。人専心万苦する時、其処に一種霊妙不可思議の感を呼生し来ること多し。この依て来る所以のものは何に依てなるかを考へ見よ。よく汝等が称ふる窮すれば通ずの意味を我は云ふなり。何故に窮して開路を求むる事を得るや。そは智慧かはた霊か。はた又神業なるかを考察してその理論を詳細に自覚自得せざれば、感応の妙を把握するを得ざるべし。感応の大事は催眠術にもあらず。感応術にもあらざる事を知りたるならん。汝等幼児の智慧と己とを比較してその優劣を観察し見よ。己は幼児の其に恥ずかしき程劣れるを知らん。汝等の幼児時代は斯くありしなるべきに、その智慧の増大比率は如何に鈍きかを思ふ鬨たた感慨無量なるあらん。智慧も霊も姿なければ形には現はれじ。汝等は言葉に囚はるる故に智慧と霊の存在を知らざるなり。言葉も幻影もおしなべて肉体作用ならずや。或る無なるもの動きて言葉に現はれ脳裡に閃き口より放射さる。然れば言葉にて現はし難き閃きは何によって表すかを考へ見よ。然る時はその深淵なる或は広大なるものが何処かに潜在しあらざれば斯る現象は起らざる事も知るに至らん。肉体あるが故に感ずるとせば、其範囲は極めてせましと云へる事に早く智慧を廻らすべし。我、常に汝等に肉体を離れよと教ゆれども、汝等は肉体を離るれば何物も感ずる事なきものとの観念失せざるによりて肉体本位を捨てざるなり。


 

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