未知日記  第五巻  感応論  魂の感応  テツシン貴尊講義


 国々の風俗習慣は即ち気候風土の関係に依って異なる所極めて大なり。従って感応作用に於ても一様ならず。例へば汝等が住む小島に於てすら東西相等しからざるに徴しても明白にその理論は解さるるならん。銘香を焚きて楽み喜ぶに対して葬式くさしと厭ふもあり。感応の相違は是等にも見らる。さりながら銘香の香は相方に同一の感応を送り居るは事実なるべし。されど想像観念に於て変化あるにて、是等に関しては深く考究を要する問題なり。汝等食物を好むと厭ふのあるをよく試めし見よ。その多くは感応に帰する事を知るに至らん。何となれば食物の味と云はんよりは寧ろ香と形の眼より来るもの多かるべし。よく聞く事なるが、あれは美味ならんも見た感じ好ましからずとか、或は香が我には好ましからずとか云ひ居るにてはあらざるか。感じ々々と唯何かの動機に使用しある言葉なれど、是を生活上或は修養上より深く考ふれば、非常に重大なる意義を有する言葉として、おろそかに用ふるは宜しからずと思ふなり。心の印画紙に感ずるは魂の眼鏡より入る印画紙と云ひしが乾板と云ふは適当なるべし。兎に角魂の眼鏡はめざむれば常に準備しありて、何時にても映写する事を得るなり。声の写真色の写真、明暗の写真はもとより魂の眼鏡は乾板に写しとるを得。その乾板は即ち心の感応の種板として処理されこれが印画されると種板に終るとの二種に区分されて保存するか、そのままに放棄さるるかに至るなり。人と対座したる時、感応感じ強ければたちまち是を録音して保存することもあるなり。然れば魂は眼鏡にも亦録音機にもなし得る感応機なる事も知るならん。もとより感応は気と光(こう)と空(くう)の力よって現はるる現象なれば、感応は何によりて現はるるやと云ふ論旨に進まざるべからず。気及び光(こう)何れか一方より感じたる時、他の一方が是に和して始めて想像は生るるなり。卑近なる例なれど、男子より感じたれば、女子が是に和して子を孕むが如しと考へよ。魂より心の乾板に映り、魄によりて意の印画紙に焼きつけられて完全なる写真と思はばよし。汝等はわづかの事に関しても感じを彼是論議するは余りに無駄なる写真を作りて、却て重要の写真を反古の中に埋めて、果は屑籠に尊き書類迄投じ居るならずや。されば斯る誤なき修養するには余りに重要ならざる事を記録せざるよう意を用ふべし。

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