未知日記  第五巻  感応論  魂の感応  テツシン貴尊講義 2021.01.31

未知日記  第五巻   意魄の感応    テツシン貴尊講義


 魂の眼鏡にて心の乾板に写し、更に意の印画紙に焼きつけをなして得たる写真は、恰も素人が慰み半分にて映写したる同様にして、不鮮明なる如く、感応作用も亦此理により考ふれば誤なし。
 汝等の修養には彼是と参考資料を蒐集するはよけれど、余りに他事にわたれる資料を集めて却て整頓に悩みて、真の思料を紛失するなどの間違ひを生じ居るらてはあらざるか。斯る間違ひを致すもみな感じの誤算より生ずる結果に他ならず。故に感応と感想の区別を明白にせば、唯感じ来らば是に応じて思慮を廻らして写真すべきか記録すべきかを考慮して後に行はば可なるべし。肉体の眼鏡は鋭敏にして直ちに映写す。又録音機の耳も香写真機の鼻も味覚写真の口も、感情痛苦の神経写真も。其々よく映写するを以て、人造の機械の如く濫りに取り扱ふは宜しからず。心して用ふべし。そは神の造りしと人の造りしとには格段の相違あればなり。汝等の家庭を見るに神を祀れる所あり。祖先祀れる仏壇あり。床には種々の宝を飾り美はしき書画をかけて客の眼を楽ませ、香を焚きて蓄音機をかけては耳を、又土蔵には種々の宝を、金庫には財産を、台所には食品をと其々整頓なし居るに、何故肉体の中に神棚仏壇床飾りをなさざるや。汝等は人の眼の前をはばかれど眼の届かぬ所を疎くするは何故ぞ。人の眼は届かずとも、神の眼は届くなり。人に帰するか、神に帰するか。座敷に埃を残すとも台所雪隠は清浄にせよ。然すれば病魔も襲はじ。斯る事柄もみな感応、感じの現はれなり。わけても心は美を喜ぶ。真に美はしく感ずるものは何ぞ。醜きと感ずるものは何ぞや。肉体に映じ来るもの須臾(しゆゅ)にして滅す。肉耳も肉鼻も同様なり。恰も乾板をさしこまざる以前に焦点を合すと同様なり。魂の眼なれば既に乾板をさし入れあるを以て映ずるなり。故に必要ならざるは常に、肉眼肉耳にて終らしむべきなり。故に肉眼にて物を見て必要と感じなば魂を用い、不必要なるものは肉眼をそのままに捨てをかば深く映写する事なきなり。意魄の感応とは如何にと云ふに魂の眼鏡と魄の眼鏡にて、心の乾板に映じたる画題は、意の印画紙に焼き付けられて是を修正し完全なる写真として永久保存する大切なる役目を有すと考ふれば、従ってすべてに対しても明白に知る事を得ん。是等は鏡心法を参照せば可ならん。肉眼肉耳より心意に感じたるは、即ち速成写真、或は日光写真と同様に考ふればよし。感応とか感じの理論は是等の事柄によりて少しは推理をなし得るならん。されば論旨は此辺にて止めていよいよ本論に入らんとす。されば本論に入るに先立ち汝等が今一つ心得おくべき事あり。

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