感応論  第五巻   終結篇上  テツシン貴尊講義

感応論  第五巻    終結篇   上  日本国の敗戦    テツシン貴尊講義
2021.01.27


 汝等今にして神を恐れず、濫りに罪を重ね外には悪を犯し、内には騒ぎて非を悟らずば、炎は汝等を焼き尽さん。悔ひ改めて神に返さば可ならん。今、我感応の論説に入るに先だち、戦争の事を語りたれば今少しく語りおかんと思ふなり。何となれば感応の要訣について後に戦争に関する資料が必要なればなり。
 汝等は殺生は罪悪にして犯すべからずとは、宗教にも人界の法律にも定められたり。然るに戦争は殺生にあらずやと云ふ疑問の生ぜざるや。我の語らんとする所は此処に存するなり。戦争はもとより罪悪なり。たとえ相互に於て如何に理由ありと論ずるも罪は罪なり。然しながらそは別として我の語らんと思ふは他ならず。汝等は殺生の意味を真に悟り居らざるを知りてなり。汝等は殺生と倒すとの意味を区別し居らずと思いてなり。人の生命をとるは殺生にして、肉体を倒すは殺生とは云ひ難し。ここに相似て異なる理論あるなり。感応についても斯る相違ある故に、此理をよくよく翫味会得すべし。

 汝等は住宅を改造せんとして今迄住みなれし家を破壊し、さらに新しきを造るは殺生にあらざることを知るならん。されど住みたる家を壊はして更に建てず、家族を路頭に迷はさば是正しく殺生となれるなり。
 「露をだにいとふ大和の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ」と、今慈音が口ずさみたり。慈音はもとより何心なく云ふひたるなれど、我に感応したれば語らん。此句は遊女の辞世の歌なり。然るに遊女にしてこの心あり。彼女は客に肉体をまかすとも心の貞操は汚さず。故に是は邪淫にあらずして、是を買ふ客人こそは即ち邪淫せしなり。殺生も邪淫もみなこの種に属す。汝等剣十倒(充当か?)ならずともせめては一矢一誅の覚悟あらば戦ひ何ぞ恐るるに足らん。逃げ惑ふは不覚悟なり。肉体に囚はるる勿れ。戦ふとも敵の生命を奪らんとなす勿れ。そは殺生となる。そは敵を倒さんと思ひて戦ふべし。同じ罪悪にても罪は軽し。一匹の虫なりとも神の造りしなれば、怨む心の感応にて殺す勿れ。唯害をなす故に倒すなりとの心ならば、一方は救ふと云ふ意味もあり。是は他に大なる災禍を及ぼしたる故に罰すると云ふ心にて倒し除かば殺生とはならざるなり。感応に於いても亦殺生戒邪淫戒の例に似たる関係あるに依て今迄語り来れり。感想は感応より起る想像なる事はよく知る処ならん。
 されど感応の真不真は斯る小さき意味に依りて想像なさば真の修養は得られざるなり。汝等今迄学したる四心法こそは、即ち感応の基礎的論旨を学びしににて、今後は本論を理解会得し且つ修養の大道を通達して以て真の人たらしめんと願ふなり。

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