感応論  第五巻   終結篇 上  テツシン貴尊講義

感応論  第五巻   終結篇 上   テツシン貴尊講義   2021.01.27


  語れば通じ語らざるも亦通じるは真の感応なり。汝等は語るを知りて語らざるを知らざるべし。汝等は鳥の声を聞けどもその語れるを知らざるなり。もし鳥にして汝等は愚者なりと云ひ居るとも、汝等は唯美はしき声よと賞賛して鳥に嘲笑さるるならん。鳥は人の言葉を知らねど人の心の思ひを看破する力を有す。汝等は自我心強くして人間は万物の長なりとの自尊心強きが故に。感応の力は極めて弱くなり行けるなり。鳥は常に我身を守らんと欲して寸時の油断もなく、又己の弱きを知り居るに依て険悪なりとあらば、忽ちのがれ去るなり。鳥に於てすら感応あり。獣類には一層すぐれたる感応力を有す。然らば人間には感応の力は鳥獣に比して如何にと云ふに、人の感応と動物の感応の有様は非常に相違あるなり。
 人間性としての感応、肉体性感応の二種に区分することを得るなり。肉体性感応は神経に、人間性は魂魄に感ずるなり。然るに人間はこの区別を混同なすを以て乱脈となりて却て、何れともつかずして度を失し居れるなり。この区分を明白に分解して感受し、或は感受せしむれば、鳥獣の遠く及ぶところにはあらざるは勿論なり。
 宇宙の現象には感応ならざるはなしと語るも、敢て過言にはあらざるなり。春には春の感応あり。夏には夏の感応、秋冬又然り。雪月花又感応を深くし、四季折々の気分に於ても感応はあるならん。感応には様々あり。
 例へば一の月を多くの人の心に映ずる感応の作用はみな異なりて一様ならざるべし。斯くも一のものに於てすら一様の感応にあらずとせば、その感応はみな誤れるかと云ふに然にはあらずして、各々その分に応じたる感応にして欺偽にはあらざるなり。然らば感応の真は何処におかば可ならんか。感応の範囲は極めて広ければ、種々雑多にして真を把握するを得ざるかとの疑問も生ぜん。又月を見、花を見、風物に接するは感応にあらずして、感想ならずやとの疑問もあらん。汝等日々の業を怠らずして己の任務を遂行して何等他を顧るなくんば、感応も感想も来り起らざるに何とて種々様々の感応あるにてはあらずや。道行く人にも眼をやり耳を傾けるは何故なるか。汝等が国は戦いの頂点に達し危期将に衣の裾に延火し居るに、唯感応に囚はれ感想に耽りてざわめき騒ぐのみにて為す術を知らず、個々別々の感応感想にて一致団結国難に殉ぜんとする献身者は幾何もなし。汝等一致団結をなしてこの上感応感想の結果に於ても、既に敵の併呑に眩惑されて敗をとり居るにはあらずや(昭和二十年三月廿七日記)精神の敗北は肉体の敗となる感応の理論より見れば、暗示、暗示、自己暗示によって真実の敗北とならば悔を千載に残すとも及ばじ。是は我の分野にあらねど汝等が頭上にかかる火の粉なり。


 
 

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