未知日記   第四巻   感応論   応心の結論  テツシン貴尊講義

感応論  第四巻   応心の結論    テツシン貴尊講義
2021.01.26


 朝に太陽を頂き、夕に星月を頂く汝等が世界に比して論旨を進むれば、汝等の脳裡に印象は深かるべし。されば応心と帰魂との関係はと云ふに帰魂とは行きて帰るなれば範囲は極めてせまく一方に属せど、応心は帰魂に比すれば範囲は広くして複雑なり。是を明らかに知らしめんが為に帰魂の言葉を用いたるなり。されば汝等是を諒として聞くべし。昼あり夜ある汝等の世界の理より解釈する時、太陽は東より西へ、西より東にかへると同様に、放心より応心となると考へてすべてに通ぜしむるを要す。放心は東より西へ、応心は西より東へかへると同様なり。太陽は東に出でて東に帰るならば、西より見れば西より出でて西に帰ると云ふならん。ここに東西の区別なくんば何処より何処に行くと云ふなるか。応心の大事はここにあるなり。故に聖者は行くも帰るも迷ひと教ゆるなり。応心とは征くにもあらず、又復るにもあらざるなり。応心即心に応ずるとは心に帰するの意にして、この大体の応心とは魂の意も含まれ居ることと知るべし。心に応ず心に帰すとは魂に通じ、魂に帰すと解すべし。是に征く復るとの置点を先に語りし東西を以てせば、即遊魂或は帰魂の区別となれるも、置点を除去せば即応心となる理なるべし。遊魂帰魂は置点を定めて現はるるなれど、置点なければ遊もなく帰も亦あるべき事なからん。汝等よくよく此理を考へ見よ。唯早合点するは極めて禁物となるなり。応心すると云ふに対し、先づ次の事柄を知りおく必要あり。
 第一に中心を定むること。第二に置点を除去すること、第三に応心したりと思ふについての有様なり。
 先づ「第一、中心を定むる」ことについて考へを廻らさば、物に応ずるには是に対して中心となるべきものなかるべからず。東西の区別は人に依て定められたるも、太陽は輝き地球は廻り居るならずや。是について地球を中心となすか、はた又太陽を中心と定むるかについて考察を要す。然らば何を中心となすやと云はば、我は即座に勿論太陽なりと答ふ。何となれば地球は滅するも太陽には関係なければ滅せず。太陽滅すれば地球は忽ち亡ぶるを以て太陽は主なり。主なるが故に是を中心と定むれば可なり。是を人間に見れば如何と云ふに地球の例とはいささかその趣きを異にす。汝等に前にも語りし如く、肉体を離れてすべてを工夫せよと云ひしもこの事あるによりてなり。何となれば太陽と地球とを語りしとき、汝等は地球を肉体なりと思ひ居るを我は知りたればなり。
 そは兎に角人間の中心、肉体を除きて、さて何処なるかと云へば即ち魂を指すなり。何となれば魂は灯火とすれば魄は光なり。魂を光とせば、魄は明となるによってなり。
 次に第二の置点を除去すると云ふは他にあらず。即ち距離を除去せよ、或は自他を、或内外を或は生死を外せよと云ふなり。東西なくんば、太陽は西するにも東するにもあらずと同様の結果なるに等しくして、唯廻ると云ふに等しければなり。斯くてこそ心は自由に旋り旋ることを知らん。然ればこそ征くと云ふは復ると云ふに帰し、帰ると思ひしは行くに属するとの結論に達す。生きて生きぬくか、死して花に終るかは、汝等の心構へ一つなり。
 生涯を楽観より楽観に送るか、悲観より悲観に暮らすかは、良き方を選ぶべき事は汝等の自由に委せん。
 次に「第三の応心したりと思ふについての有様」と云ふ事なり。汝等心霊雑話に於て画工の話を聞きたるならん。画工は山にて圧死したるにも不拘、三年の約を守りて魂(たましひ)は帰りたり。是は如何なる理に基くやを汝等は知らざるべし。妻は夫の死したる事を聞きたれど、万一奇蹟的に生きてあるにてはあらざるやとの念を以て、是を空だのみに回向し居れるが、夫の魂に感応し夫の魂は己が死したる事を知らざりし為、妻の念にひかされて帰りたるなり。是即ち第三の応心に合ふなり。
 応心とは彼にも通じ、我にも通ぜざれば完全なる応心にはあらざればなり。即ち彼我の置点を外せば彼我は一体となるを以て相互に通ず。是を魂魄に導入して観察すれば、魄に対して魂が応ずるは、魄が魂に応ずると云ふに等しく、魂魄は不可分の関係あるに依て、放心に放心を重ぬれば即ち太陽が地球を一周したる結果と同様に帰心し居ると同様なれば、放心は帰心は一体にして応心も従って一体となりたるなり。明中に暗あり、暗中明あり、明暗は前後の歩の如しと云へるあり。当を得たる言葉なり。置点基点を定めずば、アキレスも亀も同一の速度となるに等し。汝等は時間に囚はるるは彼我の区別をなすを以てなり。太陽は頭上に輝く。汝、太陽と同じ速度とならば太陽は汝の頭上を離れざるべし。応心とは是なり。汝、神を忘れずば神は汝を離れざるべし。是応心の理論なり。

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