感応論  思ひを広く貯へよ その四  テツシン貴尊講義

未知日記第四巻   感応論  思ひを広く貯へよ  その四   テツシン貴尊講義   2021.01.25
 


 例へば我水泳の技を知らずして溺死せんとなす者を救はんとして、水中にとび入るは、我を忘れたるにてそは無法無謀なり。又是を救ふべき法を工夫して救助するは我を思はずして真に彼を思ひたるなり。我を棄ててに対しては複雑なる理論多し。唯一概に我を捨ててと一言詞するを得じ。さりながらここに注意を要する事は、汝等は我と云はば直ちに肉体を先に考ふるを以て、我の論旨に対しても誤解の点すくなからざるなり。汝等濫りに我を棄つる勿れ。肉体を捨つるならば親の許可を得たらば何日にても棄てよ。されど肉体ならざる我を捨つるは親の決して許すことあらじ。何となれば汝の親は神の許可あらざれば決して許すことを得ざる故なり。肉体は汝の親の監督権に包含されて自由に処分する事を得れば、許すも許さぬも親の権利なればなり。斯く知るを得ば、我と云ふ事に対してもいささか諒解なしたるならん。所謂我を思はずとは、肉体を霊にまかせて、汝等は魂魄に従へよと云ふ事に帰する修行せよと勧むるなり。我等よく聞く所なるが、「生れざりし昔と思へば、死するものかは」と云ふ諦めの言葉なり。この言葉に似たる事に、「宝は何ものぞ、持たざりし昔と諦めよ。母胎を出し時は裸なりし」と云へるあり。
 是によって人間の明らめ方を見れば、みな肉体本位の明らめにして、真の明らめ真の覚悟にはあらざるは明瞭なり。宝は人の為のもの、その宝に縛られて左右さるるなり。是と同様に肉体は魂魄心意のものなるに、却て肉体に縛らるるは遺憾ならずや。我、かく語らば汝等は云ふならん。果実は木に充分の肥料を与へずばよき実を結ばず。人も立派にせん為には肉体を健全ならしめんとて肉体を大切にす。故に肉体は重しと。然り、然るなり。故に肉体をはなれよと云ふなり。汝等果実を作るは誰なるかを知るや。人なるべし。人の肉体を作るは誰なるかを深く考へずとも知る事を得ん。然るに汝等は肉体に囚はるるによって不健康となるにはあらざるか。其若し果実の木にして木に囚はるるならば、実を結ぶも悪かるべし。されど人にまかせあるによって立派に結実をなすなり。ここの道理を考へよ。
 行者が水行をなし、様々の荒行をなすも皆肉体をきたへて病苦の難をのがれて、健康ならしめんが為にて、肉体を粗末になし居るにはあらず。汝等は寒暑に対して其々適宜なる服装を整へ居りて却て病苦を招き居るにはあらずや。大切にして却て結果は粗末となり、粗末にして却て大切となる故に、我等が云ふ肉体を離れよとは結果に於て肉体の為となるを以てなり。一時の苦痛をしのぎて永遠の楽を得よと云ふなり。思ひを広くするによりて身も亦広く活躍するを得るなり。思ひを広くするによりて身も亦広く活躍するを得るなり。思ひ狭く身に囚はれなば、却て肉体に不自由を与ふるに心せざるべからず。肉体を大切と思はば思ひを広くせよ。我身を忘るるは我身を思ふと考へなば誤なり。身を忘るるは油断なり。油断して身を忘るるは隙なり。隙には間に犯さるる怖れあり。心すべき事にこそ。

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