感応論  思ひを広く貯へよ その三  テツシン貴尊講義

未知日記  第四巻  感応論   思ひを広く貯へよその三 テツシン貴尊講義  2021.0124


 父は是を聞きて恥たりと云へる事を聞きたり。余りに一方に偏りてものに凝りたれば斯る愚に陥る。されど小児の如く天真爛漫にて思ひ広ければ、父にも勝る智慧は働くなり。汝等にして斯るためしはあるならん。よく翫味すべきことにこそ。思ひを広く貯へて物事を処理すれば小児が云ひし如く、すべてに通じて、その後水に溺るる人も無からんと云ふ、あはれ慈悲に変らん。広きとて空漠ならざる用心肝要なり。唯茫漠として為すを知らざるは迂闊にして広きにあらず。却て迷ひとなるなり。迷ひてなすを知らざるは思ひせまければなり。思ひを広くしてすべてに拘泥せずんば通ぜずと云ふことなけん。我に囚はるるは自由を失す。是束縛の縄目にして心を縛り、魂を縛る故に放心したるにはあらず。放心放魂せずんば如何でか帰心帰魂のあるべきにあらざるなり。
 我を思はず他を思ふは放心放魂に合ひ、我を省みるは帰心帰魂に合ふ。思ひを広くせんとならば、己に囚はれありては決してなし得るあたはず。さりとて口には易けれど行ひは難し。難きをなせよと云ふは無理か不法か、又理屈かと云ふに我は答ふ。理屈にもあらず。不法にも無理にもあらずしてなし得るなり。なり得るなりと。何となれば汝等はなすべき術を知らざればなり。すべて物事には道なかるべからず。道なきを歩まんとせばそは無分別なり。我は道を説き居るなり。理屈は語らず。されば我を忘れて他の為に真をなすには、先づ自己を知りての後にすべし。己を知ると云ふは道につく一歩なればなり。我を知るとは何を知らば可ならんかと云ふに、己と力と己の分限を知らば可なり。然るのち力及ばずと知らばみだりに進むべからず。力尽きて倒るる憂ひあればなり。力に合はば進むべし。不安の思ひは二心にて自他に着けるにより通ずるなし。斯る時はなるとならぬを考ふる事なく盲進すべし。

 道は平なる所のみにあらず。ここを考慮に入れをかず、平地のみと思ひて歩まば挫折する事あるによって、先づ是等をも考への中に入れおかば誤なく希望は果さるるなり。我を中心にせずと云へば、汝等、我を忘れてと考へなばいささか相違せん。我を忘るるは即ち、我をなほざりにすと云ふ結果となる。我を思はずと、我を忘るると、又我を棄つるとの意味を明らかになしおくを要す。

×

非ログインユーザーとして返信する