感応論    第三巻   放心の最高価値について テツシン貴尊講義 2020.12.15

感応論    第三巻   放心の最高価値について   テツシン貴尊講義 2020.12.15


  放心せしむる事の理論は今迄大要語りたれど、如何なる重要なる意義に依て是をなすべきかについていささか語りおかん。人の日常生活に関してはみな其々不平不満を生ずるを以て、今迄娯しと思ひしも其に依て消滅し、又も陰惨なる気分に逆戻りすること多かるべし。聖人君子にありてすら不平ありと聞く。まして凡俗に於ておや。汝等今日に至りても尚不平不満の声を聞くは遺憾なり。此不平の来る処の原因を深く視察すれば、即ち執着より来る故に執着をはなれざれば、その目的は達すること難し。執着は心の迷ひ心の動揺心の束縛より来るを以て、心の自由を得せしめざるべからず。即ち束縛のなわめを断ちて解放し、自由の行動を得せしめて以て明朗ならしむれば、執着は除去されて不平不満を抱く事なかるべし。是を解く方法は放心によらざるべからず。此故に放心は大切なり。執着は心を縛る縄なれば是をほどかずば自由は得られまじ。ほどくとは法を解くことなり。法を解くとは解放にして、即ち放心を現はすと云ふ結果に基くなり。汝等が国の俗謡に、「我身の鬼は身をせめる。我事かいな」と云へる事あらん。今迄汝等は心に様々の罪を犯しめたればこそ、法の制裁を受けたり。然れども今は許されて解放されし身となりしを何日迄獄舎につなぎおくや。早く世の中にたたしめよ。放心は手品魔法を行はんがための悪疑心になる為に行はしめんとなすにあらず。真の人生の楽みを味はせて人身を受けたる喜悦を心底より感謝してなし得べくんば、来世も共に喜悦に充ち溢れしめん事を欲して放心解脱を計るなり。
 親子夫婦は一体なりと云ふとも、肉体は二なり。個々に持つ肉体を離れずば一に合するあたはず。されば世の中には情死すれば一体となり得ると信じて、共にたづさへて自殺をなす不心得者さへあることを見るは愚なる事にて、彼等の望みは叶ふものにあらず。然りとせば汝等は親に別れ或は子に別れ或は夫婦に於ても亦別離にあたりて、その臨終に直面したる時、胸に迫り来る悲しみのつかへを直に明らめて別るる事を得る修養をつみたるや。又己が臨終にあたりて笑ひを残して去る修養を(まつた)しありや。我は宗教者にあらず。天国極楽を語りてここに来るべし天国は斯く々々の喜びあり。地獄は斯く々々の悩みあり。人界に於て善行をなさば天国へ、又悪行を重ぬれば地獄へ墜んなどと語るにはあらずして、我々が行ひ来れる事実より現はれ来る道を参酌して汝等に示めし、汝等を自ら悟らしめんと思ひてなり。我等の説を尤もとして学ばんとなす者は、我等は共に共に手をつなぎて行くべし。我等は強いて我等の説を特に用いよと迫る者にあらず。汝等の霊は汝を導く。汝等は魂魄を一になしおかずば魂のみ或魄のみ伴はれて、一方は取り残されて浮住界に迷ふならん。されば此理をよくよく悟りて死に直面しても動ぜず。さわがぬ修養を重ぬべし。
 人に限らず動物の将に死なんとするにあたり、霊は魂魄を先に出立せしめ、最後に心意の灯火を消して出立し魂魄に合するなり。故に魂魄の出立するにあたりて、全身よりぬけ出づる苦痛を感じ、病人は座らしめよ、立たしめよと再三再四訴るなり。
 放心を行はざる人の臨終は未練のこりて執着するを以て嘆き悲む為に、霊は是等の消滅するに苦みて魂魄の放出をなすに努力を要し、魂と魄を別々に出す為に病者の苦痛は堪え難ければ心せざるべからず。是に反し放心を完全になし遂ぐれば、心意魂魄はすべてを安全なる霊にまかせて何等の不安を感ぜず、生死に対して拘泥せざれば生にも死にも喜びて従ふ。故に生にも苦なく死にも恐れざれば、臨終の苦は他に比して軽し。生に執着あればこそ人は苦むなり。老人に比して若き者の苦むは執着多きもあづかって是に基因す。放心に依て棄執着を成就して愉快に天寿を全うして、臨終の苦をもまぬがるるのみならず、滅後の苦をもまぬがれて、楽き道に上らん事を願ひてここに此篇を閉づ。

  
 感応論第三巻了

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