感応論 第二の巻   テツシン貴尊講義   鏡心の巻その一

感応論   第二巻   鏡心法    続き    テツシン貴尊講述
2020.12.03


 余事は別として心魂一如の考へは表面にして迷ひ多く、意魄一如は深けれども誤多し。小才の人は心魂のみを働かせ、思慮深き人は魄意を働かすなり。徹底せる智慧者ならでは心意魂魄一如の働きをなし得るを得ずと知るべし。故に人間の精神状態は三段階になり居ると知らば可なり。
 第一には表面なる魂心、第二には中段に魄意、第三最低なる霊智の順序と考へて、深く潜在しつつある霊智の父母に見(まみ)えんことを願ふべし。眼に映るものは映すべし。聞ゆるは聞くべし。香ふは嗅ぐべし。されど念に置く事勿れ。知らざれば知らずとも可なり。求めて知らんとなすなかれ。益なき事に思ひ悩むなかれ。心を労するのみにして得る処なからん。反射作用は心と魂とによる場合、或は意と魄による場合、又心と魂の場合、又は魂と魄の場合もありて一様ならず。甚だしきは心と心のみの場合もあるを以て、事実霊と語る迄にはその努力容易の事にはあらざるなり。
 此三段がまへの魂魄霊を一如ならしめんが為の方法を、種々様々昔より発表せられあれど、大抵空議に終れり。その理由は心意魂魄霊の五感の理を詳しく説明せず。その不充分なるによるなり。
 音楽の宮商角微羽の五律も是に合ひ、十干の木火土金水の五行説も是に合ふ。又十二支論も此働きの調和を教へ居る事も知らるべし。又易学の六十四卦論もこの五性を基にしたるに他ならず。易は疑問のおよはざるに処して、是を神に乞ひて教えを求めんとする方法にして、現代の学理よりすれば迷信なるべし。されど我が汝等に語れる親に訊ぬる法よりみれば、一種の質問応答とも云ひ得らるべし。即ち知らざる事を親にたづぬる方法なり。心意魂魄は迷ひあれども、霊には迷ひあることなし。されば心の統一を計る方法として、筮竹によりて一如の境涯に達し、算木によって計算を計らば現はるる答へは正しき筈なり。敵中すとせざるとは統一の可不可判断の正或は誤によるなり。筮竹を取って頂いて瞑想し、心及び意を丹田におちつけて静かに親に対して質問する時、親は其問いに対して明確なる答へを与ふ。故に汝等は易の可否は兎も角として親を求むる参考と思ひて、この統一法を工夫の一端に加ふるも可ならん。此理より推して考へ見よ。
心より伝はる心の答は上部なれば唯表面の答へとなり、心より魂への答は聊か深く脳裡に映るのみ。然して心より意に通ずれば胸に響きて言葉に現る。心意魂魄に通ずれば肚に響き、上昇して胸に現はれ、霊に通ずれば己未だ言葉を求めざるに、何処ともなく現はれ来りて明答を与ふるなり。汝等思ひ悩める時、偶然に明答の現はれし体験ありしならん。是ぞ霊の教へと知るべし。又刑事などが六感の働きにて犯罪者を逮捕したりと云ふも霊の教へなり。医学上末梢神経とは魂を指し、中枢神経とは魄を指すと考ふるも可なるべし。腹の底より答ありたれば定めて親の答ならんと感ずる事あるも、大概は魄の答に終る事多し。思ひがげぬ教へを外部より受けたる感じするは霊と知るべし。霊は汝の質問せざる以前に汝の質問を知り居ればなり。この他魂魄霊の三者が共々答をなして惑はさるる等々の複雑なるあれども、修行を重ねなば自づと会得せらるべし。要は三味一体の法を修得すること肝要なり。

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