感応論 第二の巻   テツシン貴尊講義   鏡心の巻その一

感応論第二巻  鏡心の巻    テツシン貴尊講義
2020.12.01


 心は表面化し、意は内面化するはこの理に徴しても明らかならん。汝等の日常に平素働き居るは心なり。意は蔭にありて是を補佐す。されば心意は車の両輪の如し。又陰陽呂律の如く夫婦兄弟の如き関係ありと悟るべし。
 汝等は祖父母に別れし経験ありや。又父母を失ひし経験ありや。又夫婦永遠に別れし経験ありや。朋友を死なせし悲みを味はひたる経験ありしや。或は子を孫を奪はれし体験ありや。この何れに於ても、何れも異なれる悲みある事はを知らるるなるべし。先づ特別の人を除きて普通一般大衆の心理状態より観察すれば、祖父母に別れし悲みはさのみ深刻ならざれども、父母の場合死したる刹那は却て涙出でず、他人の悔やみに対して却て恥ずかしく感ずる程なり。然るに日を経るに従ひて悲みの度いよいよ深刻となる。
又妻を失へる良人の場合と、良人を失へる妻の立場とはその趣を異にす。即ち妻を失へる良人の悲哀は深刻にして、夫を失ひし妻の悲哀の比にはあらざるなり。この理は後に述ぶべし。友人を失ひし時は悲みと云はんよりは、寧ろ感慨無量と云ふは当然なるべし。
 扨次に子を失へる親心、孫をとられし翁嫗心の心意は、哀憐と寂寞と一時に襲ひかかりて、堪え難き苦痛を覚ゆるに至らん。是等についての詳細は略すべし。次に理由について講述せん。
先づ祖父母に於ける場合は心のみの鑑別に委せ、意は唯平素と異ならざるが故に少しの悲しみに終る。是には気光素が薄弱となり居る結果なり。一方祖父母の気光素の減退しあるもこの影響はきはめて大なり。是に反し父母の場合は心はその度を失してなす処を弁ぜざるなり。意に於ても亦同様の結果、謂はば麻痺状態を現出して喜怒哀楽を超越せし姿となる。是心意一如の姿なり。されどその一如の有様は発作的にして修養修行より生じたる現象ならねば、心意は追々復帰の途に返るを以て自然悲しみの度加はる故なり。ここに注意すべきは男女の相違なり。女子は親に別れし時、忽ち声を上げて取り縋り嘆き悲しむ。その男子の心意と異なり居りて、その嘆く意が表面化なし居る故なり。すべて女子は男子に比して涙多きはこの理なり。

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