こだま会講演日記 第七十九回 坂本通博 筆記
易は占いに用いるものにあらず。空間的な事を計り、宇宙の神秘をさぐる。之が出来ねば易の価値はない。易のたてかたには色々な法あり。何からでもたてられる。
人の声を聞いて病気を知る、之は音楽的の計算法。
人の善悪邪正さえわかる。之は人の性は善だから、善(純真)を定義として計る。
悪人はない。悪いと言ふのはその本心が汚れているからである。
此の人はその善に比べてこれ丈汚れている尺度計で計る。
朝から夜まで美しい心でいる人はない。
此の世は汚れているから汚される
汚されないで清浄無垢な方に向く様に風呂に入る。
汚れた心を洗ってやる心持で風呂に入る事。
垢に染まらない様に、いつも純真な純良な心になる様にする。
行者が師の居ない所でいねむりする。居ないからよいだろうと思ふ。之は師をはなれたるなり。見えないと言ふ心持があっていねむりする、之をなぐられる。師は自然の直観力でよく知って居る。自然を体得したから。之が出来れば易が出来たのである。
易で直観力をのばす。易をたてることにより六感をのばす。
泰岳貴尊講義
前の会の時、宗教者は空を、学者は実を語り、その間にほこりがたまる。空だけでも実だけでもいけない。空実一つにならねばいけないが、わかった人わからぬ人がある事であらふ。
今日は両者の導き方の相違を少し話す。
宗教者は唯悪い事をするなと善悪を説く。
善法には善の報い、悪法には悪の報いがあるから、善い事をして未来は天界へ行けと語る。無常観を語り、之が人を弱くする。
学者は理にかなう理にかなわぬと語る。之で本当の善悪をわきまへない人が出来る。
証拠があるからこうすると説く。証拠には限度あり。学理でも何でもわからない事が出来て来る。地球は実在だから時間、空間、数で成り立つ。之は限度あり。
天界には之はない。この二つの界にはへだたりあり。
限度がないから宇宙は亡びない。
宗教者には欺瞞者多し。
慈音は天界を究めて居るから善悪を問題にしない。錯覚と言ふかも知れない、それでもよい。然し天界を究めたと言ふ様な智慧はどこから来たか。内耳肉眼には限度あり。不自由なものだから何かほしい。
それはたましひ。
たましひは限度ない眼耳である。
たましひを知らねばだめ。
中途半端のだけど信仰。だけど出来ない。だけどと言ふは心。だけとは迷ひ。