こだま会講演日記    第七十七回   坂本通博 筆記

泰学貴尊講義


円海師が心の信仰(学者)とたましひの信仰(宗教者)と言った。
宗教者はたましいひの信仰を教へるために空の事を話さねばならぬ。
心の方は肉体と言ふ実を伴ふから信仰しやすい。
たましひの信仰を教へる宗教者は確かにこうだと思っても証拠がないから話しにくい。だから宗教者が学理の方に引き入れられて来る。
故に宗教は衰へて行く。
学者の説を宗教化しようとする所にあやまちが出来る。
昔は神の教へは動かせないと法律的に押し付けた。神の教えはまちがいないと言って学者を刑に処した。之では亡びるは当然。
そこで迷信盲信を育てる宗教が芽生えて来る。心と肉体を伴って行く学理はいつかは変化する。現に日本の憲法が変りつつある。軍備の問題で書きなほす事になる。だから行き詰まりが出来る。
人間界のおきては神でも守らねばならぬ。たとへ人間が定めたものでも之は自然の法則。だが人間の掟はたよりないもの。
だが神の掟は正しく、又一方にかたよる事なし。神は愛なりと言ふ。之はすべての宗教の一致した教へ。
すべてに(理に合する)合ふなり、何にでも合ふ。
神は悪人にも合不。善人にも合する、動植物にも合する。
この合を人間は勝手に決めて人間丈を愛すると思ふがあやまり。
だから神はどこにでもある。
どうすればたましひと心がわかるかと言ふ不安あり。実となりて現はれたるものは滅する。
(実在は空間にかへる)滅するものを信仰しては一時的になる。
滅しないものを信仰する力を養はねばならぬ。
星も実在。だから星は眼につくが、星を宿して居る空間は眼につかない。
星がある事は信ずる事が出来るが、空間は、又無光星は眼につかないが、無光星には太陽の何十万倍、何千万倍のものあり。
之は眼につかないが空間の中にこの様なもの無数にあり。
目にみえねばそうかなあと思ふ丈で信仰する事はできない。無光星が破壊されて飛び散って、摩擦により熱を伴って光を発す。之は皆の目に見える有光星。
広大無辺と言ふ言葉は全宇宙を除いて他にない。
蟻、蜂は人間に比較してそう学問の程度は異なって居ない。
然しこの科学者は人間界を創造する事も出来ない。
人間の学問でなにかやって居るのは、蟻が人間の事を考へるより劣る。
一方は肉体の方に向いてる枝。
一方は神、空の方に向く枝。
この二又の間にクモの巣がはり。ほこりがたまる。
この埃を払って二又の修行をやめないと神が見えない。
二道追ってはどちらもとれない。
心をたましいひ丈と思ったらどうか。
心と言はないでたましひと言ふ様に修養されたい。
たましひと心と分離して居るからわからない。
心とたましひを同じと考へて、心を一寸計の方へもって行く。
それにはきれいな心、美しい心。善悪はみなほこり。これは肉体から来る人間的約束。
善い事をしても神はたすけず、悪い事をしても罰しない、と不平するはだめ。
心を常に清らかに、美くしく。心の着物をきれいにする。
心の洗濯。
私は神さんを知って居るから神と言ふ。
円海は神とは言はない。宗教者とまちがえられるから言はぬ。
唯、自然と言って居る。
私は神の方へばかり進んで行った。
諸子は肉体の方へばかり行くから人間性に入り、段々けがれて行く。
霊の方へ、毎日心を運ばせていると段々清浄になって来る。
気をくさらせるは汚れ、いつも心を晴れ晴れする事。気を強くする。之には正しいおきてに従って強くする。
神が守って居る。神の掟に従ってさえ居ればよいのだと気を強くすること。

×

非ログインユーザーとして返信する