こだま会講演日記    第七十六回   坂本通博 筆記

昭和二十七年一月五日


「貴尊よりのお力を頂く。感ずるものあり。
大事にすべきこと、忘れざる様注意あり」


信仰は気である。
罪業の深い事は毎日やって居る、が
気を正しく持つこと。
悪いものに気をとめぬこと。
気をおとさぬ様にする事。
心が広くなる、肩のこらない信仰。
自分はいやしいものだが、神と同化して行けば神と同じ心になれるのだ言ふ気をおとさぬ事。
きらい=気を払ふ。
すき=気を集める、同気相集る
同化すればすきになる。



一月十二日


何の為に易の講義をするか。之は易を教ゆるにあらず。心の修養。
それによって皆の今後は天界を見定める。之には尺度がなければ自分はとれ丈進んだか、遅れたかわからない。そこで人間の日々の生活からおして、それを尺度として徐々に進んで行く。この尺度計を教へて尺度計により曲らない方向へ進んでもらい度いと言ふのがねらいでる。
この頃の子供の育て方、人間の修養の仕方を見ると、主に心の修養が本旨になっている。心の修養丈では正しい教へとは言へない。心丈で生活しているからあやまちが多い。
一分二分三分は細かい。五分一寸一寸五分  これは粗い
一寸二寸三寸計
三寸四寸・・・・計
この細かい所から粗い方へ向ふは、天界に上る方。
一分計から五厘計、一厘計と行くは退歩。


宗教者はたましひを語り、学者は心を語る。心は肉体に伴ふから学者の説に従って居ればよいが、そんな浅薄なものでない。
ここに自然と大自然の相違あり。
人間は大自然の法則から小自然に生まれて来た。
心丈では畜生も人間も変りなし。
人間は最高動物だと言ふ。これで行きづまり。
人間でおしまひになるのなら現在の教育法でよろしい。然しこれではいつまでたっても優勝劣敗で喧嘩の絶え間なし。
学者に言はせるとそれでよいのだと言ふ。
宗教は弱いものをいじめさせない方便にすぎない。
人間は強く生きればそれでよいのだと言ふ。単純なこんな宗教を信用したら大変な事になる。一方は学理的に、一方は唯茫漠とした何か人間以上のものあり。
それで自分の心が左右されて居るのではなかろうかと言ふ不安の信仰。
心の信仰は肉体を伴ふ。
たましひの信仰は霊を伴ふ。
五寸計に結果なし。之は心。
一寸計はすでに霊に入る。
数珠の玉を通って居る目に見えないひも、之が霊(人間全体を保護す)
一つ一つの玉は心。一寸計は既に霊に入る。
この霊なるひもを断たれたらばらばらになって散る。即ち数珠は尺度計。
すべて熱量にはカロリー、電気にワットとかサイクルとか、光にもルックスとか何とか目盛り。之が十干、十二支、九星等に当る。
霊的音楽 電気音楽 空気音楽 石油音楽
一分二分計、空気の振動を計る。
霊的の方に計る 子
肉体の方に計る 子は異なる。
この音は壱越の音とか盤渉の音とかは、空気の肉体の音楽。霊的の方はそうは行かない。
子の音にはこの様な余韻あり。
この波長もって居るにかかわらず霊的の作用で変わる。
十二の音がすべて一つの様に含まれて居る。それから一つの正音を引き出すはむづかしい。甲は壱越と言ひては盤渉と言ふ如く(柱を叩いて時を知る)。
唯湿度の関係はわかる。
朝重々しい音をたてる。昼になり太陽が照って来ると軽く明るくなって来る。
霊的の耳があらばこれ丈でなく明らかに聞かれる。之がたましひ。
心で聞くのは空気の音楽(心=五分計)。
魂できくは霊の音楽。魂を霊に委ねて聞いて居ると天界の声が聞こえる。
すべては天界。皆の居る所も天国霊界。
霊界から見れば天界下界の区別なし。
肉体から心を捕らへ、心から肉体に傾き、いつも心と肉体は密着している。
之を正しく導くと言ふは学者の教育法。
心=五分計 心をかりに魂と思ったら心が一寸計になる。
魂=一寸計 一寸計をたましひと思ひ、五分計もたましひと思ったら又五分計を心と思ひ、一寸計も心と思ったら心はたましひであり、たましひは心であると考えて一つにまとめて見る。即ち私にはたましひもあれば心もあるのだなと考へる。
心を肉体の方へばかりやると・・・五分計になる。
心を空の方へやると    ・・・一寸計になる。

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