こだま会講演日記    第七十二回   坂本通博 筆記

五年、五年の四線には結果期なし。
二十年過ぎて分解期に入らねば本当の安心した生活が出来ないと言ふことになる。
之は問題なく的中す。的中せざるは用法と分別に欠けるから。
以上では三段論法で一つ足りないものあり。
五年(五分計)を破壊分解融和組織・・・・で決めてゆくと一寸計では十個あり。
破壊分解が一つの尺度、融和組織が一つの尺度。
五分計では、はじめの五個が エトエトエ  陽。
      後の五分は   トエトエト  の陰になる。
之で半分半分、先の五分は陽、後の五分は陰。
即ち一寸計はエにはじまりトに終る。
之で人間の気持ちが計れる。天候も同じ。
三つとも一つにしたものを・・・・・。大きな破壊 小さな破壊 細かい破壊 
                    20     5分     一分
この三者が一致しなければ、統割した計り方がわからねばいけない。
一年を三百六十日ときめた。そして四年目に潤がくる。来年27年は五月頃潤が来る。
潤年には子供が多いと言われる。之は月が永すぎる一年が永いからこの様な事を言ふ。然し潤年にはいろいろな喜びも多いかわりに悲しみも多い。之丈はたしか。


泰岳貴尊講義 


物事を習慣性とする事。悪い事もよい事も習慣となると壊れるものでない。
拝みに対しても人に笑われるから恥ずかしいとの心があってはいけない。
見えないもの聞こえないものだから信仰する。
見えるもの聞こえるものだったら信仰はしない。目にも見えない、聞こえもしないが何かしらある。何かなしに拝まなければならない様になる。
目にも見えない、聞こえないものがぐっとおさへつけて拝まないで居られない様になる。
子供にお化けが出るぞと言へば、お化けとは何か知らないが何とはなしん淋しみを感じて夜外に出なくなる。之が信仰のもと。
目にも見えず聞こえもしないが忘れられない死んだ子供の事、これが本当の霊、恩愛の情。暗示がつまり霊。霊の働きは暗示でなくては出ない。自然に遠ざかって忘れてしまったのはもうどこかへ霊が行ってしまったもの。忘れない様に心に止めて置くようにする、それが一緒に暮らす事。何か見えたり聞こえたりするのは錯覚の作用。体の障害による。
゛理にかなふも又悟りにあらず゛
悟ったものは法力は通じない。゛肉体的には又別であるが゛
理中の理と言ふものあり。之まで行がねば本当の覚者にあらず。
すべてが明らかになり、考へる必要がなくなれば悟ったもの。
迷ひ迷はず、迷ってもよろしい、迷はんでもよろしい。唯後を忘れぬ様に。
神の前には形があれば手を合はせたり何かして拝む。之は前面的。
拝んで居る時、後ろから誰からか切られたらおしまひ。
之は後ろにすきがある。前に後ろに人があるから拝みが出来ない。
本当に心の底から有り難いと言ふ拝み。前には目鼻口あり、横には耳あり。後ろには何もないからすきが出来る。
脳中には目鼻なし。脊椎が人を支えて居る。之を忘れぬ事。
腹に背あり、背に腹あり。
全身悉くを一つの塊にして拝む。
僧侶の袈裟、之は前は狭く後ろは広い。仏の守護をうける為のもの。
食事に拝するも皆人の世話、労力の結果、天地の恵みの結果。
だから感謝の心持が有り難いと言ふ心が湧いてきて、頂きますと言ふ本当の拝みになる。
かくなると美味不味はなくなる。一家和合のもとは食事にあり。一家揃って食事の時頂きますと言ふ簡単なところに信仰のもとがある。
泰岳の生かして食べると言ふはこれ。

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